釈尊の悟りは、生老病死といういわゆる四苦から始まっています。人間社会が存在している状態から出発しているのです。または、地球が存在している、森羅万象が存在している所から出発しているのです。ところが、字宙は地球ができる前からあるのです。
天地創造という概念が、大乗仏教には全くないのです。いわゆる地水火風によって、森羅万象が因縁的に所生しているということはあります。しかし、因縁の本体が何であるのか。地球がなぜ地球であるのか、これについての明確な概念はないのです。すでに地球が存在すること、人間が生活している時点から出発しているのが、釈尊の生老病死への悟りのスタートです。
人間がすでに存在している所からスタートしたのですから、人間がどうして造られたか、なぜ造られなければならなかったのかという、いわゆる人間創造の基本的な概念は、仏教にはないのです。そういうものを造る必要がないのです。
般若心経によれば、五蘊皆空、色即是空ですから、人間の常識、知識が空であるし、森羅万象も空です。人間だけでなく、地球も空になるのです。
しかし、一切空と言っても、現在、地球が自転、公転しているという事実があるのです。太陽が毎日輝いているという事実がある。心臓が動いているという事実があるのです。このような事実を、どのように認めるのかということになりますと、一切空という概念は概念として、人間が生きているという実体を究明しなければならないことになるのです。こういう点がなかなか難しいのです。
例えば、浄土真宗なら浄土真宗という概念だけで仏教を取り上げれば、簡単です。浄土真宗の概念だけを取り上げているのですから、地球が存在することを浄土真宗が取り上げる必要はないのです。
ところが、人間存在という角度から考えますと、やはり一派に即した宗教概念だけでかたづけるわけにはいきません。もっと広く大きな場から見ていかないといけないのです。
般若心経は、釈尊の悟りの思想を、最も端的に要約、または集約したものです。それから新約聖書は、イエス・キリストの言行を基礎にして書いている。
ところが、釈尊も、イエスも、両方共、宗教家ではなかったのです。釈尊は釈迦族の皇太子であった。イエスはナザレ村の大工の青年であった。二人共宗教家ではなかったのです。
釈尊やイエスの言行を、宗教という概念で取り上げると、ちょっとおかしなことになるのです。
内容的に考えましても、般若心経は、人間の知識、常識が一切空であると言っている。知識、常識だけでなく、十二因緑、四諦八正道が全部空である。大乗仏教の唯識論の中心理論を空と言っているのです。眼耳鼻舌身意という六根がないと言っている。色声香味触法もない。人間の感覚もないと言っているのです。
そうしますと、人間自身が生きていることを認めていないことになるのです。これが究竟涅槃の内容になるのです。
これは、世間一般に言われている宗教の対象にはならないのです。
世間一般の宗教は、有形的、または無形的に、人間にご利益を与えるもの、人間を幸福にするものです。
般若心経は、人間が生きていることを否定する字句が並んでいるのですから、宗教とは言えないことになります。
ところが、これを各宗派が好んで用いているのです。テレビドラマなどで葬式の場面になりますと、申しあわせたように般若心経を読んでいるのです。これはおかしいのです。
人間の五官、六感を否定している般若心経が、葬式とどういう関係があるのか。般若心経と葬式とはあまり関係がないのです。
五蘊皆空、色即是空、究竟涅槃が般若心経の目的ですから、霊魂とのかかわりを説いているとも言えるのですが、般若心経には神がありません。空です。空と霊魂のかかわりと言えなくもないのです。
神という言葉を、空という言葉におきかえてみますと、空と魂とのかかわりということは言えるのです。ところが、神が空であるかないかということです。これは非常に難しい問題になるのです。
新約聖書の方ですが、これは人間を否定していません。否定してはいませんけれど、イエスの言行を正面からじっと見ていきますと、イエスは人間であったが人間ではなかったということになるのです。神の子であった。「彼は誠の人にして、誠の神であった」と、ヨハネは言っているのです(ヨハネの第一の手紙5・20)。「神の生みたまえる一人子であった」と言っているのです(ヨハネの手紙4・9)。彼は普通の人間だと言えないことになるのです。
イエスという人物は、人間のあり方を明確に示すため、また、神の側から、人間とはこういうものであることを示す見本として、現われたのです。
神は人間全体をイエスのように見ているということが、新約聖書の定義になるのです。全世界の人間を、人間として認めていないのです。イエス以外の人間を、神は正当な人間として認めていないのです。
神が現存在の人間を、なぜ認めていないのかということには、色々な理由があります。ただ認めていないという言い方だけでは、とても承服できないことですが、神は現存在の人間を人間として認めていないことは確かです。その証拠に、人間は死んでいくのです。
神がはっきり認めているとすれば、人間は死なないはずです。これがイエスの考え方です。「私は天から下ってきた生きたパンである。それを食べる者は、いつまでも生きるであろう」と言っています(ヨハネによる福音書6・51)。イエスは一度死んだけれども、また甦ったのです。彼は現在も生きているのです。
そのように、イエスは甦ったのであって、彼によって死が破られたのです。新約聖書によれば、そういうことになるのです。
これがもし本当であるとすれば、人間は死なないものであることになるのです。
死ぬ人間は本当の人間ではない。死なない人間が本当の人間です。
イエスを本当の人間だと神が認めているとすれば、死なない人間を人間として認めていることになるのです。
神と霊魂のかかわりと言いましても、死ぬ人間をさすのか、死なない人間をさすのか、こういうことをはっきり考えてみなければならないことになるのです。
イエスが死を破ったことは、新約聖書に堂々と書いています。しかも新約聖書は、ほとんど全世界の国家、民族が認めています。キリスト教のいわゆるテキストであるだけではなくて、文献としてはっきり認めているのです。
しかも、日曜日が休みであることは、イエスの復活を記念するために休んでいるものでありますし、二〇二〇年というのは、暦年算定の基準を、イエスの誕生にしていることになるのです。これは、イエス・キリストの復活が、歴史的な事実であることを意味するのです。
(内容は梶原和義先生の著書からの引用)