般若心経をご覧ください。般若心経の文句を読んでみますと、人間が生きている状態を真っ向から叱っていることが分かるのです。落ち着いて般若心経をお読みになれば、皆様ご自身がこっぴどく叱りつけられていることを感じるはずです。
五蘊皆空、色即是空、空即是色、究竟涅槃という言葉は、現在人間が生きている状態を、痛烈に叱りつけているのです。
ところが、般若心経を仏教の経典だと考えているために、いくら叱られてもさっぱりこたえないのです。お経が何か言っていると言ってそれでおしまいです。
般若心経を宗教扱いすることが間違っているのです。聖書をキリスト教の教本と考えていることが、間違っているのです。宗教ではない聖書と般若心経を、宗教にしてしまったのです。
そこで信じてもよい、信じなくてもよいという、いわゆる信教の自由ということになって、自分の霊魂をごまかしているのです。信教の自由というあやふやな言葉にごまかされて、自分の魂を騙しているのです。世界中の人間が皆これをしているのです。
生活を考えるのは結構です。しかし、生きている人間の命について誰が責任を持つのでしょうか。現在大学で教えている専門学が、人間の命について何の役にも立たないのです。人間存在の本質に関しては何の役にも立たないのです。ただ生活の役に立つだけです。
学者は専門学としかつめらしいことを言っていますけれど、単なる生活の知恵です。ノーベル賞と大きなことを言いますけれど、ただの生活の知恵にすぎないのです。それだけのことです。コンピューターができても、ロボットができても何になるのでしょうか。これが世界では最高のものと考えているのです。
今の人間は命のことを全然考えようとしないのです。霊魂の本質のことを全く考えようとしないのです。このような文明を愚かと言わずに何と言ったらいいのでしょうか。
大学へ行って何をしているのでしょうか。たくさんの学費を使って、四年間の時間を使って、何をしているのでしょうか。大学では生活の知恵を教えるだけです。生活の知恵を教えるだけだという看板をはっきりかけたらいいのです。人間存在の本質に繋がる可能性を持っていなければ学問という価値はないのです。人間存在の本質に繋がるような原理を持っていなければ、学とは言えないのです。
人間生活が便利になるための知恵を学問と言っていますが、これは生活の問題であって、学という程のものではないのです。このように人間の頭が曲げられてしまっているのです。命に対する真面目な考え方がなくなっているのです。
皆様はこういう社会に住んでいることを、よく考えて頂きたいのです。皆様が今生きている命は、必ず死んでいく命です。
肉体が火葬場に行って、灰になるのは当たり前ですが、肉体に宿っていた魂がどうなるかです。肉体に宿っていた精神機能はどうなるのでしょうか。これを考えようとしないのです。
命が肉体的に生きている状態を魂というのです。精神機能が生理機能と一つになって生きている状態を魂というのです。
魂の目を開くこと、魂の存在価値を認識すること、魂に対して光を与えることが学というべきです。ところが、現在の学はこういうことを考えていないのです。
これは文部科学省が悪いのではありません。政治の一部として文教の面を司っているだけのことです。学の良し悪しは文部科学者の責任ではありません。全世界の文明指導者の責任です。
現在の世界の文明の指導をしているのはユダヤ人グループです。これがアメリカの大統領に発言させているのです。ロシアの大統領に発言させているのです。これがユダヤ主義です。
人間文明にはこういう決定的な欠陥があることを知らなければいけないのです。決定的な欠点があることは、冷静に考えたら分かるのです。
天地の命が太陽になって現われています。太陽光線の反射によって地球が明るく見えます。太陽光線が大空のちりに反映して明るくなっているのです。これが命です。
天地の命がこのように働いているのです。天地の命が学の根本です。天地の命が光となっていること、また知恵となっていることが学です。大無量寿経ではこれを言っているのです。
皆様の命は無量寿という命です。死なない命です。「帰命無量寿如来 南無不可思議光」と正信偈にあります。無量寿如来に帰命することです。不可思議光とは皆様の脳細胞の働きです。不可思議な光が人間に宿っているのです。これに南無となることです。自分の頭に宿っている光、理性の本質、良心の本質に南無となることです。
自分の心臓が動いているという事実は、地球が、自転公転していることと同じです。これがそのまま命です。この命を知恵として、また光として受け止めることになりますと、今生きている自分の命は、天地の命であることが簡単に分かるのです。
自分が生きているというばかな妄想、命は自分のものだと考えることは、非常に愚かな妄念です。この妄念さえ捨ててしまえば、死なない命がすぐに分かるのです。
太陽光線によって地面が明るく見えるのです。この太陽の働きが、そのまま皆様の知恵になるのです。太陽の働きという物理的なエネルギーが、そのまま皆様の心理的な知識に変更されるのです。
これができれば、皆様が死なない命を見つけることは何でもないのです。毎日、毎日、太陽の光を見ているのです。雨の日には太陽の光は見えませんが、雨の降る様子が見えます。太陽の輝き、雨の降る状態は大地の命です。天地の命がそのまま理論的に変化してくるのです。
宇宙物理の物理構造が人間自身の心理構造として、転換されるのです。この働きのことを神の御霊(みたま)というのです。御霊さえ分かれば何でもないのです。
御霊さえ分かれば、永遠の命を摑まえることは何でもないのです。皆様が生きていることを御霊というのです。「たま」というのは皆様が肉体的に生きている状進です。「しい」とは試みに生きていることです。これをたましいというのです。
たましいという言葉の意味さえ分かれば、太陽の物理的なエネルギーを、皆様の心理的なエネルギーに変化させることは何でもないのです。
自分が生きているというこの傲慢な考え、ユダヤ的な傲慢な考え、文明人全体が持っている決定的な考えが、根本的に間違っているのです。
自分が生きている。命は自分のものだという傲慢な考えさえ捨ててしまえば、太陽の光がそのまま皆様の知恵となり、知識となるのです。
現在の人間は皆死なねばならないことを知っているのです。人間は色々な理屈をつけて、死ぬことをごまかそうとする思いがあるのです。「心やすく潔く死ねる方法」という本があるということですが、そういう本を読んでもだめです。
人間は死ぬために生きているのではありません、生きるために生きているのです。人間は死ぬものだという考えは、現代医学の根本的な間違いです。
病気を治すことだけが医学ではありません。命の本性を真っ直ぐにすることが本当の医学です。今の医者で命が分かる人は一人もいないのです。もしいたら、今の医学に対する不備、不満をぶちまけるはずです。ぶちまけないところを見ますと、今の医者は病気を治すこと、お金を取ることに一生懸命です。
医学は現代文明におべっかしているのです。今の文明には命がありません。命に対する認識がありません。このような文明におべっかしているのです。
これは医学だけではありません。科学も哲学も同様です。肉体的に生きている人間に迎合しているのです。おべっかしているのです。
大学という看板を掲げているのなら、少しは命のことを考えなさいと言いたいのです。分からないにしても、分かろうとする努力くらいはしてもいいのです。学ということにふさわしい努力を払うのは当然です。ところが、それをしていないのです。
「心やすく潔く死ねる方法」という本をいくら読んでもだめです。私たちの人生は死を乗り越えることが目的です。死を突破するのです。
釈尊やイエスの思想を真面目に勉強する気持ちさえあれば、血路を開くことは十分にできるのです。ところが、釈尊の悟り、イエスの信仰を宗教だと思っているから、何にも分からないのです。
(内容は梶原和義先生の著書からの引用)