五蘊皆空とは、人間の考え方、思い方は、皆間違っているという意味です。お寺へ行ってお経の説教を聞くこと、お経について寺が教えていることが、間違っているのです。
仏教家の思想が、五蘊そのものです。五蘊そのものでしゃべっているお坊さんの話を、五蘊で生きている人間が聞いているのです。五蘊が五蘊に向かって話をしているのだから、全く漫画みたいなことになるのです。盲人が盲人の手引きをしているようなものです。
そういう宗教をいくら勉強しても、この世を去ってしまえば、一切通用しないのです。花の色、海の色、雲の流れをよく見れば、天然自然の命が分かるのです。その命を掴まえようとすれば、まず、自分の間違った考えを棚上げしなければならないのです。間違った自分の考えを持ったままで、命を理解しようとしても無理です。
人間の頭には、現世の常識がいっぱいつまっています。現世の常識がいっぱいつまっている所へ、さらに天地の命の本質を入れようとしても入らないのです。そこで難しいと感じるのです。
今までの自分の常識を頭に入れたままで般若心経を入れようとするから、入らないのです。難しいのではなくて、般若心経が人間の頭の中へ入るだけの余裕がないのです。
コップに一杯の水が入っているとします。その上に、さらに水を入れたら、こぼれるに決まっ
ているのです。新しい水を入れようと思えば、今入っている水を流してしまわなければならないのです。
般若心経が難しい、聖書が難しいと思う。これは難しいのではなくて、受けとめようとしないのです。
空を正しく受けとめなければ、命は絶対に分からないのです。宗教は空を受けとらないままで、幸福になろうとする。死んでから、極楽や天国へ行こうとする。そういう間違いをしているのです。これは根本から間違っているのです。
生とは、天地自然の命です。これは死なない命です。空の色、海の色、青葉若葉の色は、死なない色です。花の色も死なない色です。
花は枯れます。枯れるまで、死なない命の色を、人間に見せているのです。精一杯咲いて、死なない色、命の色を人間に見せてくれるのです。花一輪が分かれば、今の真実が分かるはずです。
空の色は、人間が造ったものではありません。天然自然の命の色です。今日はいい天気だという言い方で、人の命が天の命を賛美しているのです。
このように、人の五官の本質は、死なない命を捉えるだけの力を持っているのです。
ところが、人間の常識が悪いのです。人間の知恵、人間の理屈、人間の利害得失という考え、
物心が人間の頭にいっぱいつまっているのです。だから、目や耳が大自然の色、大自然の音を捉える力を持っていながら、それを理解することができない。そこで死んでしまうのです。
だから、般若心経は五蘊皆空と言って、人間の考えを捨てろと、しきりにすすめているのです。
色即是空という言い方で、空を教えているのです。
この空が難しく思えるのです。般若心経を読んでも、空が分からない。空が分からないと言っても、生きている間は通用しますが、この世を去ったらどうなるのでしょうか。死んだら誰も教えてくれません。その結果、たった一人で考えなければならないことになるのです。
死んだらしまいというわけには、絶対にいかないのです。
人間の霊魂は、死なないものです。肉体は滅びますが、霊魂は絶対に死なないのです。
この世を去りますと、精神の働き、記憶はただちに凍結します。凍結してしまいますから、人間の頭は働かなくなります。
しかし、凍結は永遠に続くのではないのです。凍結したということは、眠りこんでしまったということです。ところが、やがて目をさます時が必ず来るのです。その時が恐いのです。
現在の人間は、死んでしまうに決まっている自分を自分だと思っている。これは大変愚かなことです。死んでしまうに決まっている自分を自分だと考えていないとすると、全くの超人になるのですが、超人であろうとなかろうと、死んでしまうことは困るに決まっているのです。
困るに決まっている自分を、どうして自分だと思っているのでしょうか。自分が好んで、死んでいく人間を自分だと思っているのではないでしょう。誰かにそのように思い込まされているのです。誰に思い込まされているのか。文明によって、そういう世間並の思想に、まきこまれて、人間は死ぬものだと考えてしまっている。
ところが、魂があるのです。魂は、人間の中核的な存在、本体的な存在です。人間と魂とは違います。人間には固有名詞があって、市役所の戸籍謄本に登録された、世間並に通用するものです。
魂は、現に人間が生きているそのことがらを意味するのです。例えば、心臓が動いていることが魂であり、客観的に言いますと、それが神の実体になるのです。「神は自分のかたちに人を創造された」とあります(創世記1・27)。人と神とは、本質的に共通する原理を持っているのです。
人は、命を自由に価値づけることができるのです。自分の命に対して、自分で正札をつけることができるのです。般若心経はそれを言っているのです。
般若心経を愛好している人は、日本にはたくさんいます。数百万人の人々が愛好しています。
もしかしたら一千万人を越すかもしれません。ところが、般若心経の五蘊皆空が、全く捉えられていないのです。そのために、世間並の世界観に従って考えなければならないような、束縛された気持ちを持たされているのです。
死ななければならないという考えは、東縛されている考えです。
自分の命に対して、自分の意志によって命を変換すること、転向することはできるのです。
自分の価値を自分で決定することができることが、人間の尊厳です。これをはっきり言ったのは釈尊であり、イエスです。
釈尊は自分の存在が空であるとはっきり見切ってしまった。これは世界観の転換です。今まで生きていた彼自身が、実は生きていないことを発見したのです。
釈尊は、自分が生きているという気持ちで出家したのです。ところが、生きていないことが分かったのです。その結果、自分自身の存在が空である。死ぬこと自体が空である。生まれてきたことが空なのだから、死ぬことも空であるという定義づけをしたのです。これが般若心経の根本精神です。
(内容は梶原和義先生の著書からの引用)