般若心経は、現世を解脱した人間の経験を、そのまま述べているのです。般若波羅蜜多ということは、向こうへ渡ってしまうことです。人間が生きている岸ではない、向こうの岸です。向こう岸へ渡ってしまいますと、生きている世界が全然違ってしまうのです。これが般若波羅蜜多です。
般若心経を読むのでしたら、これくらいは考えなければいけないのです。般若心経は、この世から出ることができること、この世から出て、この世の外側からこの世をもう一度見直すことができるという、雄大な思想の原点です。
イエスは、自分は人間ではない、生きている神の子だと言っているのです。これはちょっと考えますと、とんでもないことを言ったようですが、実は、心臓が動いていることが神です。目が見えること、手足が自由に動くことが、神です。
イエスは、自分自身の存在を、生きている神の子として位置づけた。それだけのことです。そこで、彼は死ななくなったのです。
人が生きていることが神ですから、生きている客観的事実の中へ、自分の気持ちを持ち込んでしまえば、死なない自分が分かるのです。永遠の命を見つけるための新しい世界観の創建は、何でもないことです。誰でもできるのです。しようと思ったら誰でもできるのです。
現在の文明は、完全に行きづまっているのです。いわゆる文明先進国は、皆老化現象を起こしているのです。日本でも、だんだん老人が増えています。ただ年齢がのびて、馬齢を重ねても何もならないのです。
それよりも、生きている年数が三十年であっても、永遠の命を見つけるような世界観を確立すれば、死なない命がはっきり分かるのです。分かるに決まっているのです。
心臓が動いていることが神です。神は死なないに決まっているのです。日本の神は頼りないものです。いわゆる八百万の神は、人間が造った神で、こんなものは神という価値はないのです。
本当の神は人間が造ったものではなくて、人間を造ったものです。
この神を、人間は毎日経験しているのです。神を信じなくても、神を経験しているのです。 心臓が動いていることが分かることは、神を経験していることです。これが分かれば、死なない命を見つけることは、何でもないのです。
これを新約聖書では、「悔い改めて福音を信ぜよ」と言っています(マルコによる福音書1・15)。悔い改めるとはこういうことです。キリスト教では、こういう徹底したことを言いません。キリスト教は、欧米のキリスト教の教義を、受け売りしているだけです。本当の聖書を見ていないのです。だから、キリスト教は、はっきり欧米の宗教です。
これに対して、新しい聖書の見方を日本から、教えてあげなければならないのです。日本は新約聖書を公認することが、文明国の中で一番遅かったのです。これが非常におもしろいのです。一番最後まで聖書を認めようとしなかった日本から、本当の聖書の見方が発揚されようとしていることは、偶然ではないのです。
日本人は、キリスト教に対して、非常に懐疑的であった。警戒的であったのです。だから新しい聖書の見方が日本ではできるのです。この意味で、日本という国はおもしろい国です。ユダヤ人と日本人は、非常におもしろいのです。興味津々たる民族です。
日本人は放っておけば、全部死んでしまうのです。日本人だけではなくて、全世界の人間は、全部死んでしまいます。
イエスがどうして死を破ったのか。これが分かれば、死ななくなるのです。
これが分かった者として、黙っているわけにはいかないのです。死ぬのが分かっていながら黙視することができないので、このようなことを言わざるをえないのです。
ある評論家が新聞のコラムに、「日本は病理社会である」と言っていました。日本は今病気にかかっているのです。これは、文明が本当のものではないこと、人間の命が正当に認識されていないことを意味しているのです。
病気に病んでいる日本人には、五蘊皆空が大変な頂門の一針になるのです。人間の思い、常識、知識は間違っているのです。学問に、明確な目的がないのです。人間の生活の役には立ちます。しかし、人間はやがて死ぬに決まっているのです。
般若心経を正しく受けとらないで生きていると、死んでしまうのです。今までの生活を、二十年、三十年続けても、しようがないのです。死ぬだけのことです。
死ぬに決まっている自分を、なぜ自分と思い込むのか。人間は現世で生活するために生まれてきたのではありません。人は現世で命を経験するために生まれてきたのです。
生きていることは命を経験することと大関係がありますが、しかし、この世で生活することが目的ではないことを考えなければいけないのです。
釈尊は、この世で生活するために来たのではありません。イエスもそのとおりです。この世で生きていても、しょうがないのです。この世で生きていても、ただ死ぬだけです。これが現代病理の根源です。
般若波羅蜜多をもう一度お考え頂きたいのです。彼岸へ渡る知恵を学ぶ必要があるのです。
私たちは、現在、現世に生きています。生きている以上は、生活を考えないわけにはいきません。しかし生活することは、人間の本当の願いをかなえることにはならないのです。
今、人間が生きているのは、現在という限られた時間帯のものであって、永遠を意味するものではないのです。これは分かりきったことですが分からないのです。人間の本心は死にたくないというのが、偽らざる願いです。
仏教では本願と言っています。本願と言っても、本心と言っても同じですが、死にたくないという願いは何であろうか、なぜ死にたくないと思うのであろうか。
常識的には死なねばならないと考えている。死なねばならないと常識的に考えていながら、死にたくないという願いが非常に強い、欧米人などは死を恐れるという強向が強いのですが、日本人は死ぬのはあたりまえという人が相当います。口では言うけれど、心ではやっぱり死にたくないに決まっているのです。
死にたくないというのは、人間の偽らざる本心であり、本性であり、本質です。
ところが、死なねばならないような常識を、持たされている。これはどういうことなのか。
死にたくないのなら、死にたくないという本質が、そのまま生活の基本にならなければならないはずです。
ところが、死にたくないという本心が生活の基調にならないで、死なねばならないということが生活の基調になっている。これはどういうことなのでしょうか。
命の本質が正当に理解されれば、死ななくてもいいということが分かるに決まっているのです。
生は本来死ぬべきるのではないのです。死ぬはずがないものが、生です。死なねばならないと考えるのは、肉体的生命の方です。
生の本性を見ていきますと、死ななくてもいいはずです。
霊魂不滅という言葉があります。これは良い意味での不滅と、悪い意味での不滅と、二つの意味があります。簡単に言いますと、魂は神の続き柄、親戚です。人の心理機能は、神にかたどりて造られたもの、神の心理機能がそのまま人に備わっているのです。
ところが、今の人間が神の本質のようなすばらしい聡明さを持っているかというと、そうではないのです。
なぜかと言いますと、人に与えられている魂の能力の五~六%しか働いていないからです。
なぜそうなるのか。人間の脳細胞の九十五%までが、眠っているからです。ここに問題があるのです。人間の業(ごう)という非常に大きな問題があるのです。人間の業によって、脳細胞の多くが眠っているのです。
人間がこの世に生まれてきたのは業です。魂だけなら業はないのですが、魂が肉体を背負いこまされて生きていかなければならない条件をしつけられたことが、業です。
カルマ(業)とは、どうしても死ななければならない肉体を、背負いこまされたということです。
ところが、魂は死にたくないという本然性を持っているのです。ここに人生の根本的な矛盾が存在しているのです。
文明は生活することだけしか考えない、文明のアイデアは、現世に生きることを考えている。
しかし、人間の本質は、現世に生活するのではなく、現世に生きている間に、すばらしいものを見つけなければならない責任があるのです。
生まれたいと思って生まれたのではないのですが、人は理性と良心を持って生まれている。これはすばらしい尊厳性です。人権どころのさわぎではないのです。
人間の尊厳性は、神の尊厳性と本質的に同じものです。ところが、能力的には天と地の違いがある、なぜかというと、人間は肉体を持っているからです。
人間にそのような尊厳性がありながら、なぜ肉体という厄介なものを押しつけられたのか。これが現在の学問、宗教で、全く分からないのです。
キリスト教は、宗教の教義の説明はします。ところが、人間がなぜ肉体という重荷を背負いこまねばならなかったかという説明ができないのです。
これは宗教上の問題です。どうすれば人間の業を果たすことができるのか。カルマ(業)は人の魂にかせられたノルマです。カルマというノルマがあるのです。これを果たしてしまわなければ死ぬに死ねないのです。
これが人間は直感的に分かっているのです。死にたくないという気持ちは、ノルマを果たしていないからそう思うのです。
死んだらおいしいものが食べられないとか、ビールが飲めないとか、テレビが見れない、家族と別れなければならないということが、死ぬことの決定的につらい原因でもないのです。
死にたくないという気持ちの底には、業がつまっているのです。このまま死んではならないということが、分かっているのです。これが、人間の本心です。本心は本性から来ているのです。
ところが、現代の文明は、人間の本然性を全く問題にしないのです。
人間の本然性を問題にする文明なら、核兵器を造るはずがないのです。教育の混乱が起こるはずがない。経済の行きづまりが起こるはずがないのです。起こるはずのない問題が、続々と起こっている。これはすべて、文明が重大な矛盾を内在していることから起こってくるのです。
文明は、人間の本然性を考えないで、生活のことばかりを考えている。あらゆる学問は、生活のためには役立ちますが、本当の命のためには、全く役立たないのです。病気を治す医学でさえも、病気は治しますが、命の保障はできないのです。
命とは何か。命の淵源は何か、人間が生きているとはどういうことなのかが分からない。病気は治しますが、死なねばならないことにかわりはないのです。これが現代文明の病理です。人間の本然性を全く問題にしていないからです。
(内容は梶原和義先生の著書からの引用)