大般若経は長短様々の経典を集大成したもので、六百余りの膨大な経典ですが、その内容を集約したのが般若心経です。大般若経を濃縮したものです。
大乗仏教の本当の要点を述べたもので、般若心経をしっかり理解して頂ければ、大乗仏教の教義はおのずから分かるのです。
書いたのは多分龍樹菩薩であると言われているのです。第二結集の時に龍樹によって書かれたと言われているのです。
般若心経は現在の人間にご利を与えるとは言っていないのです。他の経典、例えば法華経とか、維摩教とか、涅槃教、大般若教と色々ありまして、全体で一万七千六百巻あると言われています。これらをすべて勉強するのは不可能に近いのではないかと思われるのです。また、時間がない人はすべてを勉強する必要もないのです。
私たちは人生の実質、実体、人間の命の実体を端的に究明することを目的にしていますので、仏教そのものの勉強を目的にしていないということをご理解頂きたいのです。従って、各仏典の細かい説明は致しません。
般若心経には大乗仏教の目的論的なものが示されていますので、般若心経を勉強しますと、仏教のだいたいの深さが分かるのです。この点で宗教ではない角度から般若心経を勉強しているのです。
般若心経には釈尊の悟りの内容が要約されています。仏法の中心を捉えるという考え方から申しまして、般若心経の勉強をしますと、それでほとんど十分だと言えるでしょう。
物事の考え方から申しますと、空という面からの考えと、実という面からの考えがあるのです。空を知るということは空に同じることです。これは実を知るために空に同じるのです。無という言い方もありますが、無と空とは少し違います。無は空のある面を見ているのです。空の反面を見ているのです。
ところが、空には両面がありまして、空っぽであるという面と充実している面とがあるのです。まだ現われてはいないけれど、充実した面が隠れているという空と、空っぽであるという空と両方あるのです。
般若心経の色即是空という場合の空は空っぽの方を言っているのです。空即是色の場合の空は満ちている方を言っているのです。
実になりますと、はっきり表面に現われている実体を指しているのです。聖書はこの実を書いているのです、大乗仏教の思想は大ざっぱな言い方をすると、こういう二つの面が言えるのです。
皆様の人生をまともに勉強するとしたら、この二つの面を心得ていなければいけないのです、仏教だけを勉強しても本当のことは分かりません。仏教は譬であって、阿弥陀如来とか、大日如来というのは抽象人格です。具体的に存在していた人格ではありません。歴史的な実体ではないのです。
仏教は思想的な勉強にはなりますけれど、命の勉強にはなりません。本当の命の勉強をするためには、どうしても聖書のご厄介にならざるを得ないのです。
聖書は歴史を踏まえて書いているのです。ところが、仏法は悟りを踏まえて発言しているのです。ここが違うのです。歴史の面からの考察と、悟りの面からの考察との違いがあるのです。
私たちは命を究明しているのです。そのためには、人間が何のために生きているのかという目的に向かって突入するような考え方を持たなければならないのです。ですから、仏典の一つ一つについて考察するということは致しませんのでご理解頂きたいと思います。
色即是空の色は目に見える物質的存在を指しているのです。目に見えるものは空です。目に見えるという形で私たちが意識しているのは本当に存在するものではありません。
現在では中学生でも知っていることですが、理論物理学の常識で考えますと、物質は存在しない、ただ電子の運動があるだけです。
実と有
般若心経には実という言葉がありません。般若心経だけでなくて、大乗仏教全体に実がないのです。これが大乗仏教の特長であります。大乗仏教に無がありますが、有については説明がないのです。正当に言いますと、有という文字の本当の意味が分かって初めて無が言えるはずです。
ところが、仏教では有が分からないのです。有の譬のようなものはあります。例えば、遍照金剛とか、毘盧遮那仏があって大宇宙全体を照らすと仏典にありますが、これは思想であって本当にある人格ではないのです。
無ではない本当の有がどこにあるのか、仏教では分からないのです。これが仏教の特徴です。
形があるものは色ですから空です。色は空である。ところが、色ではない本当の有とは何なのか。現在空として現われているものがあるのです。例えば木が現われています。木が現われているというのはどういうことなのか。なぜ物質が存在するのか。色即是空であるなら、なぜ空が色として出ているのかということです。
空が色として現われる原因が、仏教では説明できないのです。これはしかたがないのです。なぜしかたがないのかと言いますと、法というのがありまして、悟ることです。仏というのは仏さんという人格ではなくて、悟るという目的を持っている人格です。これが仏です。
聖書でいう神が仏教にはないのです。あるように言っていますが、第二結集で龍樹がそういう思想を仏典に取り入れたのであって、釈尊自身はそういうことを説いていないのです。
釈尊の本当の思想は分からないのです。分からなくなっているのです。阿弥陀如来ということも、釈尊自身が説いたのか、説かなかったのか分からないのです。法蔵比丘というお坊さんが悟りを開いて如来になったと大無量寿経説明しているのですけれど、これは釈尊のことを阿弥陀如来と言っているのであって、阿弥陀如来という神があったのではないのです。
本当の有とは何か。仏教は無神論です。神がないのです。天地が造られたということを考えないのです。天地が既にあったと考えるのです。地水火風という四つの大きい力によって、大自然は既に生まれたと考えるのです。
天地が自然に生まれたというが、自然に生まれたとはどういうことかです。これが仏教では説明ができないのです。仏教には天地を造った本人がいないのです。従って、天地が造られたという思想が仏教にはないのです。
天地は自然にできたと考えているのです。これが因縁所生です。因縁によって天地が生まれたというのです。それでは因縁の本体は何かというと分からないのです。これ以上は仏教では説明しないことになっているのです。日く言い難しとなるのです。千聖不伝、不立文字、教外別伝、ただ悟れとなるのです。
聖書は初めに神が天と地を造ったとはっきり言っているのです。聖書は神が天と地を造ったと明言しているのです。聖書と仏法とでは根本から出発点が違うのです。出発点が違うからこそ比較対称して参考にすることができるのです。
般若心経には有がありません。だから、般若心経だけでは人間を完全に説明できないのです。
人間自身の考え方は五蘊皆空です。空です。これは般若心経にはっきり書かれています。人間が現在生きていることが空です。
人間は現在の状態で生きていても、しかたないのです。本当に有が分からず生きていても、ただ死ぬだけです。死ぬに決まっているのです。だから、人間が現在の状態のままで生きているということは、無意味です。
そこでどうしても人間を空じてしまわなければならないのです。現在人間が生きているのはその原因がなければならないのですから、その原因を究明するという態度をとりますと、有が分かってくるのです。
現在の人間が生きているままの状態を承認してしまいますと、神が分からなくなるのです。命が分からなくなるのです。
本当の命を見極めようと思いますと、まず空にならなければいけないのです。空が分からなければ、実が分からないのです。そこで般若心経がどうしても必要になるのです。
般若心経には実はありません。神もありません。だから聖書を勉強しなければならないのです。
仏教には人間が生きていることに目的がないという言い方をする人が相当多いのです。禅宗は人間が生きていることに目的はないというのです。天台宗でもそう言っているのです。
仏教では人間が生きていることに目的がないことになるのです。だから、現在の人間をアウフヘーベンしても、テーゼとしての人間がいることがはっきり分からないということになるのです。
釈尊が生老病死ということを悟ろうと考えて発見したのが空の思想でありまして、人間が現世に生きていることが空であることが仏教の終極的な結論です。
釈尊は人間がただ空であると見ていたのではないのです。もっと大きいものを見ていたようです。ところが、有を見たのではないのです。
私たちはただ単に教理的な勉強をするのではありません。人間が現在生きているという事がらを正確に、真実に究明しようとしますと、般若心経が言っている空は私たちに非常に大きい参考になるのです。
仏教に空を越えた命があるのかないのかということを、仏教的に論じるということは、必要がないと思います。仏教は命を伝えるということよりも、空を見ることが目的だからです。従って、大乗仏教だけでは人間完成はあり得ないことになるのです。そこで、般若心経の空の他に、命をはっきり提示している聖書が必要になってくるのです。
本当に命を捉えている教学、教義はありません。端的に実体的に命を掴まえるということは、素人の方がいいのではないかと言えるのです。釈尊は宗教には全く関係がない素人でしたけれど、空という偉大な真理を発見したのです。
贖罪論というのは新約聖書の思想ですが、旧約聖書という角度から考えてみても、肉の人間は存在していないことになるのです。新約の贖罪というのは肉の人間を認めないのです。これが般若心経の空と一致するのです。
肉の思いは死であると言っています。肉体的に存在するということを自分だと思い込んでいることは、死であると言っているのです。
大乗仏教は人間を肯定する面がありますが、空じることを前提にして肯定しているのです。
贖罪には教義としての贖罪論と、聖書がストレートに提示している贖罪とがあるのです。贖罪という言葉は似ていますが、内容は全く違います。
どのように違うかと言いますと、キリスト教の贖罪論は、罪人である人間がキリストを信じることによって、彼の贖いによって人間の罪が贖われる。罪がないものと見なされて救われるというのです。
キリストの血潮によって私たちの罪が許されるというのです。これは間違ってはいないのですが、言葉が足りないのです。キリスト教の贖いによって救われるのはそのとおりですが、キリストが十字架につけられたということを、どのように承認するかです。十字架の承認のしかたが問題です。
十字架はただ贖罪のためではなくて、肉体的に存在する人間が消えてしまうことを意味しているのです、「私はキリストと共に十字架につけられた。生きているのは、もはや私ではない」とパウロが言っているのです(ガラテヤ人への手話2・19、20)。この考え方です。私はもはや存在しない。今いるのは自分ではない、キリストが自分という形で生きていると言っているのです。これが新約の贖罪論の特徴です。
この点は仏典とよく似ていますけれど、少し違う点があるのです。私たちの命が正確に救われるということを、真実に探求することになりますと、正直に十分に検討して確かなことを掴まえなければいけないのです。
これは天地創造ということをお話ししなければ分からないと思います。聖書は約束が原則になっているのです。キリストが神から遣わされてきたというのは確かですが、この言い方だけではただの宗教観念になってしまうのです。
日本人は神の約束が全く分かりません。日本人は約束の民ではありませんので、神の約束とは何であるかが分かりくいのです。地球が地球であることが神の約束に非常に重大な関係があるのです。
(内容は梶原和義先生の著書からの引用)