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  • emeraldnoniji2016

欲得現前莫存順逆


 信心銘に「欲得現莫存順逆」という言葉があります。信心銘は禅宗三祖鑑智僧燦禅師の著作と言われていますが、これと一期一会とは同じことになるのです。

 欲得現前莫存順逆というのは、法律にも、政治、経済にも通用する考え方です。現前というのは瞬間です。今生きているこの瞬間です。

 現前は現実ではありません。私たちの命は生きている瞬間しかないのです。鼻から息を出し入れしているこの瞬間だけがあるのです。

 息を出し入れしているというのは、この瞬間だけに通じる実体です。昨日、生きていたことには関係がないのです。また、明日の呼吸とも関係ないのです。

 命は厳密に言いますと、今だけのものです。今の他に命はありません。今生きているというこの瞬間を掴まえるのです。これを一期一会というのです。

 今、鼻から息を出し入れしている瞬間を一期というのです。一会というのは、今この瞬間に、命に面会している、万物に面会していることです。

 皆様が歩いても、バスに乗っても、一会です。靴をはくということが一会です。靴をはく前と、はいた時と、はいた後の瞬間があるのです。そこに、実感と満足と喜びがあるのです。納得があるのです。

 利休はこれを言っているのです。靴をはくだけで命が実感できるのです。これが分かる心境を仏というのです。私たちの行動の一つひとつが一期一会になっているのです。その一つひとつに納得があるのです。

 これを実感していますと、生きているだけですばらしい喜びがあるのです。歩いている時には、自分が歩いているのではなくて、一期一会が歩いていると思いながら歩くのです。そうしたら、素晴らしい実感を与えられるのです。この世に生きている人間ではないことが分かるのです。

 順逆とは、良し悪し、利害をいうのです。美醜、善悪を考えるのです。いわゆる差別語です。私は儲かった、あの人は損をしたと考えるのです。こういう考え方が全部順逆になるのです。

 莫存とは、そういう考えをしてはいけないというのです。現前を本当に掴まえようと思ったら、また、一期一会を掴まえようと思ったら、損をしたとか得をしたとか、成敗利鈍を考えるなというのです。成敗利鈍をいちいち考えていたら、本当の命は掴まえられないと言っているのです。

 命が分かればいいのです。利害も得失もないのです。これを実行しますと、現世を出てしまえるのです。

 皆様は非常に合理的で、論理的に考えようとしているのです。非常に科学的な思考方式を持っているのです。こういう考え方の前に、まず解脱して頂きたい。そうすると、気楽になるのです。解脱せずにこれをしていますと、順逆の世界に引きずり込まれて、これは良い、これは悪いという考えに掴まえられてしまうのです。こういう考え方をしていますと、労が多くて功が少なしになるのです。

 まず自分の考えを捨てることです。これをして頂きたいのです。

 信心銘の最初に、至道無難唯嫌揀擇(しどうぶなんゆいけんけんじゃく)とあります。この天地宇宙の中で本当の道は一つしかないのです。つまり、至りついた道、即ち、般若波羅蜜多は一つしかないのです。

 本当の般若波羅蜜多は一つしかないのです。仏教で言っているのは、仏教の般若波羅蜜多であって、これはまだ小さいのです。本当の般若波羅蜜多は全世界に通用するものでなければならないのです。

 至道は難しくないのです。難しいものだと思ったらいけないのです。これが至道無難です。唯嫌揀擇というのは、好き嫌いをしてはいけないということです。

 人間の悟りは一つしかない。その悟りを本当に得たいと思ったら、これは好きだ、これは嫌いだと言ってはいけないのです。

 自分の計らいを一切問題にしないで、外から息を出し入れしていることだけを考えなさいというのです。

 欲得現前というのは、外から息を出し入れしていることを知りたいと思ったら、順逆を考えてはいけないということです。

 聖書に次のようにあります。

 「イエスが宮から出て行こうとしておられると、弟子たちは近寄ってきて、宮の建物にイエスの注意を促した。

 そこで、イエスは彼らに向かって言われた、『あなたがたは、これらすべてのものを見ないか。よく言っておく。その石一つでも崩されずに、そこに他の石の上に残ることもなくなるであろう』」(マタイによる福音書24・1、2)。

 イエスの弟子はガリラヤの漁師が多かったので、人間的な常識で生きていたのです。この人々にイエスはいろいろと神のことを説明したのですが、エルサレムの神殿については何も言わなかったのです。

 当時、建築中の大神殿があったのです。その神殿に対して、イエスはどのような気持ちを持っているかを弟子たちは知りたかったのです。

 日本の神殿なら皆偶像です。日本には創造者としての誠の神がないのです。全知全能の神は日本にはありませんから、日本人に明治神宮を見せて何と思うかと言っても、何でもないのです。ただ明治天皇を祀っているだけのことです。国のシンボルとして祀っているだけのことです。命には関係がないことですから、どんな建物を造ろうと、異邦人の勝手です。

 ところが、ユダヤの場合はそうではないのです。ユダヤの神がイエスの神でなければならないのです。イエスの神がイスラエルの神でなければならないのです。そこで、神殿の神をどう考えるのかというような、難問に属するような質問をしたのです。

 現世の宗教を認めるということは、現世の文明を求めていることになるのです。弟子はイエスに対して、「あなたは目に見えない神がおいでになるということを言うけれど、一体、この世の文明が神殿という形で存在している人間文明を、どうお考えになるのですか」というような質問をしたのでしょう。

 これに対して、イエスは「建築物を良く見なさい。その石一つでも崩されずに、そこの石の上に残ることはないであろう」と言っているのです。

 イエスは皮肉な答え方をしているのです。今、目の前に立派な石造神殿があるが、これはやがて跡形もなく壊れてしまうと言っているのです。そうして、改めて、他の石によって、他の神殿が建てられると言っているのです。

 今のすべての文明は根底から全部潰されてしまう。目に見えるものも見えないものも、全部潰されてしまう。そうして、今石がある所に、新しい石が置かれるであろうと言っているのです。このことをご承知頂きたいのです。今、人間が造っている文明は死んだ人間が造っている文明です。死ぬに決まっている人間が造っている文明です。この世の道徳とか、しきたりとか、この世の生活の形は、すべて死んでいく人間が造ったものであり、死んでいくに決まっている人間が現在も造っているのです。

 現世に生きている人間は、現世に生きているように見えるのです。ところが、それは心臓が動いているだけであって、現世の人間はこの世に生きてはいますけれど、心臓が動いているということを知らないのです。自分の思いでこの世に生きているのです。

 人間の思いが人間になって現われているのです。人間の思いが文明になって現われているのです。ところが、人間の思いは命ではないのです。思いと命とは違うのです。

 本当の命というのは、心臓が動いているという事がらです。この心臓が動いているという実体的な事がらに基づかないで、自分が生きているという思いに基づいて生きているのです。

 例えば、皆様がお茶を飲んだ時、お茶の味を味わって飲んでいるのです。お茶の味を味わおうと思っていなくても、自然に味わえるのです。そうすると、味わいとは何かと言いますと、心臓が動いているのと同じ意味で、生まれる前の命が皆様の中に働いているということになるのです。

 目で物事を見るという視覚意識とか、味覚意識が皆様の中にあるのです。これは生まれる前からの命の延長です。

 生まれる前の命は死なない命です。まだ生まれていないのですから、死ぬはずがないのです。生まれる前の命が本当の命です。死なない命です。

 死なない命が肉体的な形になって、この世に現われたのです。これを魂というのです。ところが、肉体的に形になってこの世に生まれたことが業(ごう)です。死なない命のままにしておいてくれたら、死ぬはずがないものを、肉体的な形でこの世に生まれたために、業の真ん中に放り込まれたのです。

 パウロは、「私は肉につける者であって、罪の下に売られた」と言っているのです(ローマ人への手紙7・14)。肉体的な形でこの世に生まれたことを、罪の下に売られたと言っているのです。これが人間の業です。

 肉体という条件でこの世に生まれた時に、人間は死ぬべき運命を背負わされたのです。霊魂は死にませんが、肉体は死ぬのです。

 肉体的な形でこの世に生まれてきたということは、死なねばならない条件で生まれてきたということです。死なねばならない条件で生まれてきた人間は、死なねばならない条件から抜け出す方法を考えなければならないのです。抜け出さなければ、死ぬに決まっているのです。

 六千年の間、死ぬに決まっている人間ばかりが文明を造ってきたのです。文明は死ぬに決まっている人間が造ってきたのです。だから、この文明は滅びるに決まっています。

 サミットとかG7と言って、世界七か国の国のリーダーが集まって話し合いをしていますが、滅びゆく文明を何とか滅びないようにと、遣り繰り算段しているのです。現世における遣り繰り算段ばかりであって、永遠に関する話し合いは全くしていないのです。

 こういう文明はやがて潰れるに決まっているのです。人間歴史が消えてしまうのです。

 このことをイエスは神殿に譬えているのです。ユダヤの神殿は文明のようなものであって、いかにも立派なもののように見えるのですが、内容は空っぽです。命が分かっていないからです。

 だから、今の文明は完全に潰れてしまって、ここに新しい文明が立ち上げられると言っているのです。これがやがて現われる千年間の絶対平和、完全平和のキリスト王国です。

 ユダヤ人は自分の力で、新しい文明を立ち上げようと考えているのです。マルクスの考えがそれだったのです。ホワイトハウスのやり方とか、クレムリンのやり方は、新しい世界を人間の力で立てようとしているのです。

 史記に、「人盛んなる時は天に勝つ、天定まって人に勝つ」という言葉があります。人間の勢いが良い時には、神なんかあるもんかと思うのです。人間が元気が良い時には、神なんかないと言って、横車を押してもまかり通るのです。

 天が正当な位置を獲得することになれば、人間は負けるに決まっているのです。

 今の文明は天に勝っている文明です。やがて、文明は天に負けるに決まっているのです。これをキリストの再臨と言います。

 人間の思いが石です。人間文明のシンボルが石です。「石の心を取り除き、肉の心を与える」という言葉がありますが(エゼキエル書36・26)、人間の常識は石の心です。石の心を持ったままで、イエスの命を掴まえようとしてもできないのです。だから、聞いた話は分かるけれど、どうも実感がないことになるのです。

 コップいっぱいに水が入っている所へ、新しい水を入れるようとしても入らないのです。コップの中の古い水を空っぽにしてから、新しい水を入れなければいけないのです。ところが、皆様は古い水を空っぽにすることに、なかなか賛成しないのです。

 死んでしまうに決まっている自分の常識が、どうしても重大に思えるのです。これをよく考えて頂きたいのです。病気とか、経済事情とかいろいろありますが、本当に自分が生きているということをはっきり見れば分かるのです。

 五十歳の方は五十年の間、いろいろな経験をしたと思うのです。ところが、人生の経験の仕方が、一期一会という仕方ではなかったのです。だから、皆無駄な人生経験になってしまっているのです。これは利益にならないで、却って、悪になっているのです。

 いろいろと楽しいことをしたと言われますが、それが全部、肉の記憶になっているのです。これがうるさいのです。自分の記憶は自分にしかない記憶です。記憶の正体が皆様の人生の正体です。

 どういう記憶が皆様の頭の中に残っているのかが、今までの皆様の霊魂の正体です。これを持ったままで死んだら、ひどいめにあうのです。

 記憶が皆様の霊魂を殺すのです。記憶が皆様を束縛しているのです。話は聞けば分かるが、受け取ることが難しいと言われるのです。誰がそういうのかと言いますと、皆様の記憶がそう言っているのです。

 皆様の記憶は皆様の思いです。皆様の思いが記憶になって残っているのです。これが皆様の地獄になるのです。

 地獄を引っくり返してしまうのです。このやり方が一期一会です。良心と仲良くするというのは、これをいうのです。良心と仲良くすると、今までの記憶をごそっと引っくり返せるのです。

 いろいろな記憶があるでしょう。今からでも遅くないですから、それを記憶し直すのです。例えば、ハイキングに行って空の青さを見たことがあるでしょう。ところが、その時の人生験が薄っぺらであったために、空の青さが持っている生命的な価値が分からなかったのです。ただ空が青かったと思っただけです。

 空が青かったということは、神の栄光が青の色に現われていたのです。それを見ると、栄光がストレートに分かるのです。

 犬や猫は神の栄光が分かりません、第一、空を見ないのです。晴れであろうが、雨が降ろうが、関係がないのです。ただ腹が減っているかどうかだけです。

 人間には空の青さが分かるのです。空の青さとは何か。これは命の本源である神が皆様のハートにアピールしているのです。語っているのです。皆様のハートを刺激しているのです。どういう刺激かと言いますと、プロポーズという刺激です。これをしているのです。

 神は人間の魂に向かってプロポーズしているのです。空の青さを通して、花の美しさを通して、また、ご飯のおいしさを通して、牛肉のおいしさ、マグロのおいしさ、メロンのおいしさを通して、人の魂にプロポーズしているのです。神のプロポーズをさっと受け取って、「ああ有難い」と思える心を、無量寿、無量光というのです。その時に、無量光が輝いているのです。

 そこに仏があるのです。自分が仏になるのです。ところが、人間が青空を見ている、人間がご飯を食べているということだけですと、神の栄光を無視していることになるのです。その刑罰が地獄になって現われるのです。

 自分が納得しなくてもいいのです。自分の中にある霊魂に気が付けばいいのです。自分の思いによって考えると、大変難しいように感じるのです、霊魂で聞けば、難しいとは思わないのです。霊魂で聞くという訓練をしますと、非常に素直に聞けるのです。

 霊魂の素直さが女の本体です。ところが、今の女の人は女性になっているのです。創世記の二章二十三節に、「男から取ったものだから、これを女と名づけよう」とありますが、これは今の女性とは違うのです。

 今の女性はユダヤ文明が造ったもので、本当の女とは違うのです、神が造った女ではないのです。女の本当の姿が、男の霊魂です。

 男は女が好きで好きでたまらないのです。実は、女が好きな人ほど、見込があるのです。女性が好きではない男性はだめです。

 とにかく、男は女性が好きです。なぜこんなに好きなのかと思うほど、女性が好きです。男のハートが女性になっているのですから、好きでたまらないのは当たり前です。

 こういうことが日本の宗教では分からないのです。仏教でも分からないのです。本当の女の心になりきることができると、普通の人間が如来さんになれるのです。

 今の女はだめです。女性になっているからです。男が本当の女になる。女は元の女になるのです。そうすると、初めて、男でもない女でもない、本当の観自在菩薩になるのです。これが永遠の恋愛です。

 固有名詞の人間が頑張っている間はだめです。魂にならなければいけないのです。

 男は女に対して、考え違いをしていたということを反省しないといけないのです。女を知らなかったのです。女自身が女を知らないのですから、しょうがないのです。

 神殿の石が全く無くなってしまうのです、礎として捉えてあった石までが無くなってしまうのです。そこへ全く別の石が持ってこられるのです。

 礎まで無くなってしまう地震は、余程の地震です。上の建物が潰れるような地震ならありますが、礎まで無くなるような大地震は今までには無かったのです。これから起きるのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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