彼岸とはどういうところか。この世ではない向こう岸です。人間が集まっている場所ではないのです。人間が生きていないところです。これが向こう岸です。
人間が生きている状態で、向こう岸へ渡ってしまうのです。今日、彼岸へ渡っても、今日という日と明日という日とは時が違いますから、今日彼岸へ渡ったら、明日もう一度渡る必要があるのです。明後日、また渡る必要があるのです。この世に生きている間、毎日彼岸へ渡り続けなければいけないのです。
命は毎日新しいのです。毎日、新しい命を経験しているのですから、毎日、新しい彼岸を経験するのでなかったらいけないのです。これを実行している人は、日本にはいませんし、世界にもいないのです。しかし、これはしなければならないことです。
世界中で誰もする人がいなくても、私たちはそれをしなければならないのです。なぜかと言いますと、皆様がこの世に生まれたのは、彼岸を見つけて彼岸に入るためです。
彼岸を見つけない状態、彼岸に入らない状態で、人間として生きていても、何にもならないのです。
皆様は四十年、五十年の間、この世に生きていたのですが、皆様の本質には何のメリットもなかったのです。ただ生きていただけです。ただこの世の常識を学んだだけです。何のプラスにもならなかったのです。
今まで生きていた自分は人間として生きていたのです。人間として生きていたのは、魂の上に乗っていただけです。魂の上に乗って踏ん反り返っているのが人間です。これが後天性の人間です。
後天性の人間というのは、常識と知識で生きているのです。常識、知識は人間の思いです。思いというのは迷いのことです。
皆様は生きていると思っているでしょう。現世に生まれてきて生きていると思っているのは、ただ思っているだけです。従って、現世で生きていると思っていても、人間の思いは根本的に迷いそのものです。
魂は思いではありません。魂が生きているというのは、生きているという事がらです。これが霊です。これは、誰かに習わなくても、生まれた時から生きているのです。
生まれてしばらくすると、物心がつきます。物心とは何かというと、偽りの人格です。物心がつくと、人間はばかになるのです。迷い出すのです。迷い出した結果、矛盾の世界に生きるのです。こういうことをご理解頂きたいのです。
この状態で生きていながら、いくら般若心経を読んでも分かるはずがないのです。
この状態では、神を信じることは絶対にできません。キリスト教の神なら信じられますが、こんなものはキリスト教が造った神です。
キリスト教の宗教教義が神を造っているのです。今の人間が信じられるように造っているのです。「天にまします我らの父よ」とキリスト教の人々は祈っていますけれど、天とは何かが分からないのです。ましますとはどういう状態なのか。我らの父とは何か。この一つひとつが、分かっていないのに、天にまします父よと祈っているのです。これは聖書をばかにしているのです。
キリスト教も仏教も、現世の人間に分かるように、嘘ばかりを信じさせているのです。これが宗教教義というものです。これを解脱して、魂の方へ移行するのです。これはなかなかできないことですが、これが分かりますと、般若波羅蜜多の意味が分かってくるのです。
人間は現世に生きていても何にもならないのです。九十年生きようが、百年生きようが、何にもならないのです。何にもならないどころか、罪を造っているだけです。業(ごう)を積んでいるのです。嘘を言ったり、誤魔化したり、焼きもちを妬いたりしているのです。人を憎んだり、恨んだりしない日があるのでしょうか。
この世ではこういうことをしなければ生きていけないのです。こういう世の中です。世の中の大人が悪いのです。
デカルトは精神と物質は別だと言っていますが、こういう考えが全く間違っているのです。霊が分かれば、精神と物質が一つであることが簡単に分かるのです。
皆様がこの世に生まれてきたのは、この世に生きるためではありません。皆様がこの世に生まれてきたのは、人間と魂とを見分けるためです。命とは何かということを知るために、生まれてきたのです。
このことを日本的に言いますと、観世音というのです。世音というのは、この世の有様です。この世の有様を見ることによって、この世がいんちきなものであることがはっきり分かった人は、いんちきではない状態に移ったらいいのです。
皆様はこの世に生まれた時には、霊魂そのものだったのです。ところが、物心がついて、人間になってしまったのです。これが間違っているのです。
大人のゆがんだ気持ちを放下することはできるのです。これを脱ぎ捨てることはできるのです。そうすると、皆様は元の魂に帰ることができるのです。
皆様の五官の本質はそのまま魂の本性です。これを情緒というのです。本当の情緒に対して、目を開くことができますと、初めて魂ということが分かってくるのです。そうすると、現世にびくびくして生きている必要がなくなるのです。
今の人間は戦々恐々として生きているのです。ガン、心臓病、脳梗塞にならないか。いつか地震が起きるのではないか。会社が倒産しないか、不景気にならないか、老後の年金や介護はどうなるのか、いつ死ぬかもしれないなど、びくびくして生きているのです。安心して生きていられないのです。
魂がはっきり分かれば、坦々として知るべきことを知り、言うべきことが言える人間になるのです。そういう人間になれるのです。これが観自在です。
観自在すること、観世音することが、人生の目的です。これをするために、私たちは生まれてきたのです。般若波羅蜜多をするために生まれてきたのです。
般若波羅蜜多が人生の目的です。私たちはこの世に生きるために生まれてきたのではありません。皆様はこの世に生きることに対して、熱心でありすぎたのです。だから、この世に生きることが自分の目的のように考えているのです。これは間違いです。
命さえ分かれば、この世で生きていけるに決まっているのです。本当のことが分かれば、生きていけるに決まっているのです。
本当のことが分かったら、あえて生きていかなくてもいいのです。
私たちは現世に生きるために生まれたのではないのです。般若波羅蜜多するために生まれたのです。命そのものを知るために生まれてきたのです。
一人の人間の中に、本質と異質、嘘と誠が同居しているのです。人間は二重人格になっているのです。
この世に生きている以上は、二重人格もやむを得ないかもしれません。私でも、子供さんを見たら「かわいいお子さんですね」と言いますが、嘘の場合があるのです。かわいくなくてもかわいいですねと言わなければならない場合があるのです。
この程度の嘘なら言ってもいいでしょう。これがお世辞というものです。こういうことはあまり几帳面に、神経質に考えることではありません。
この世に生きる、この世で生活するために生まれたのではないのに、生活をするために、何十年間かの人生を棒にふっていますと、その結果として、皆様の魂は非常に厳しい裁きを受けなければならないのです。これは当たり前のことです。魂としての本質を持っていながら、それを認めようとしなかった人間に責任があるのです。だから、裁かれることになるのです。
現在の地球ができたのは理由があるのです。これは、宗教ではない聖書という角度から見なければ分からないのです。
大宇宙の中心は命です。星が瞬いているのも、地球が自転公転しているのも、命の現われですが、命というのは機能的なものだけではなくて、人格的なものでもあるのです。これを聖書は神と言っているのです。
神というものの実体は、物が存在することの実体をいうのです。これを聖書は、ザ・ネーム・オブ・ゴッド(the name of God)と言っています。神の名というのは、物が存在することをいうのです。これが神の人格の本性です。
神の人格の本性には意志があるのです。宇宙の命には意志(will)があるのです。人間にも自由意志があるのです。人間の意志はそのまま神の意志に通じるようにできているのです。
皆様が人間であるという気持ちから解脱して、冷静に、平明に五官の本源で物事を捉えようと思えば、意志が純真な形で働き始めるのです。そうすると、神の意志と皆様の意志が相通じるようになるのです。
こういう角度から地球の文明を見ていきますと、今の文明が二十一世紀の中頃まで進行するとは思えないのです。もっと早く崩壊する恐れがあるのです。
今の文明はあまりにも歪みすぎています。あまりにも汚れすぎているのです。もう少し歪んでいきますと、文明それ自体が自壊することになるのです。自滅することになるのです。
(内容は梶原和義先生の著書からの引用)