自由律俳人に種田山頭火という人がいました。この人の生涯を考えてみますと、全く人間の業(ごう)をそのまま生きておられたようです。この人の記録や俳句から滲み出ている切実な感覚からそのように言えるのです。ある意味では般若心経の実験台のような人間でした。
名誉を捨て、地位を捨て、家族を捨て、一生涯の人生の目的を全部捨ててしまって、ただ俳旬の境涯だけを生きたのです。熊本市の曹洞宗報恩寺の僧侶でしたが、道元の思想と俳句だけに生きるという純粋な感覚は、驚くべき精進であったと思います。
自分の業と真正面から取り組んだ。それと、一生涯相撲を取っていたという人でした。山頭火の俳句の一つに、「どうしようもない私が歩いている」というのがありますが、これは何とも山頭火らしい俳句です。切実な感覚が滲み出ているのです。
名利を捨て、自分の欲望も家庭も捨て、世間的な常識や知識を捨てて生きていても、なお業から逃れられなかったという山頭火のさんたんたる生涯が現われているのです。
人間は色即是空という概念が分かっただけでは救われないということが、山頭火によって証明されたのです。
釈尊の時代には世の中が非常に素朴でしたから、五蘊皆空、色即是空という感覚だけでよかったかもしれませんけれど、現代の社会ではそれではだめです。山頭火は実際に五蘊皆空を生活したのですが、業から逃れることができなかったのです。
肉体的に生きている人間の根源が何であるか、自我の根本が何であるかが、山頭火には分からなかったのです。これを新約聖書で勉強していきますと、自我は本源的には存在しないものになるのです。これはイエス・キリストの十字架という原理を探求しますとよく分かるのですが、生きているままの自分が、また、目が黒いままの自分が死んでしまえるのです。
これは全く驚くべきことですが、十字架を信じるということによって、自分が完全になくなってしまうのです。
パウロは、「私はキリストと共に十字架につけられた。生きているのはもはや私ではない」と言っているのです(ガラテヤ人の手紙2・19、20)。私はもはや生きていないと言っているのです。
もし山頭火がこの心境に到達することができたのなら、山頭火は生きている人間の業から解放されたと思います。
色即是空、五蘊皆空の悟りだけではいけない。悟りだけでは救いがない。悟ることと同時に救われることが必要だということになるのです。
般若心経に悟りはあるが、救いはないのです。そこで、般若心経の悟りによって肉体的に存在する自分が空であることを悟ること、十字架によって自分の魂がはっきり救われていることを経験することです。この二つがなければ人間完成はできないのです。
山頭火の生涯、また、彼の心境については全く同感ですが、惜しいことに、山頭火はイエス・キリストの十字架に近づこうとしなかったことが、甚だ残念であったと言えるのです。
人間は自分で生まれたいと思って生まれたのではないという、この簡単なことを忘れているために、自我意識に振り回されているのです。欲望の問題も、山頭火が業を果たせなかったという問題も、自分がいる、自我意識といういわれがない概念によって、魂が振り回されているからです。
自我意識によって自分の霊魂が振り回されているということが、現実における人生の一番大きい矛盾の根源になっているのです。
(内容は梶原和義先生の著書からの引用)