日本という国の金看板に誤魔化されているのです。日本という金看板を外してしまうと、天皇制の値打ちが分かるのです。金看板をかけている間は、天皇制の本当の価値は分からないのです。
人間文明の本質から考えますと、天皇制というのは驚くべきものです。これが分からないのです。金甌無欠というのは、日本の国には関係がないことです。
日本の天皇制に金甌無欠という事実はありますが、これは日本という全看板には関係がないのです。皆様はこれが分かれば死ななくなるのです。
日本人は金甌無欠と謳っていながら、何のことか分からなかったのです。金の壺に欠けがないというのです。これは人間の歴史全体から見て、すばらしい大真理を言っているのです。このことが日本人には全然分かっていないのです。
日本の国という概念で、金甌無欠という大真理を分からなくしてしまっているのです。日本という国号の中で、金甌無欠を仕切ってしまっているのです。囲いの中に閉ざしてしまっているのです。だから、本当の金甌無欠が分からないのです。
これは世界歴史の秘密です。これが本当の阿弥陀如来だと言ってもいいのです。
本当の命が分かりますと、歴史でも哲学でも、経済、政治も、宗教でも分かるのです。こういうものが全部分かるのです。
「分け登る麓の道は多けれど、同じ高嶺の月を見るかな」という一休禅師の道歌がありますが、日本人は本当の頂を知らないのです。こういう愚かなことを、日本人はしているのです。
イエスを勉強すれば、あらゆる宗教、学問に冠絶したことが分かるのです。弘法大師や伝教大師、道元、親鸞よりもすばらしいことが分かるのです。
どんな大師でも、どんな学者でも、イエスのある面を説いているだけです。真言宗とか、天台宗とか、禅宗、日蓮宗は専門学みたいなことになるのです。
専門学というと非常に上等なもののように思えますが、専門学というのは部分学です。例えば、経済学というのは、経済のことを勉強するから経済学というのです。国家社会全体のことを捉えているのではないのです。
専門的ということになりますと、部分的になるに決まっているのです。近代学というのは専門学ばかりです。専門学以外の学問はありません。これがユダヤ人のトリックです。
ユダヤ人問題の根本的な解明が、日本では全然できていないのです。これは日本だけではなくて、欧米社会も同様ですが、聖書をまともに読んでいないからこういうことになるのです。
哲学や宗教をいくら勉強しても、ユダヤ人問題は絶対に分かりません。仏典をいくら勉強しても分からないのです。ユダヤ人問題が分からなければ、世界歴史の実体を捉えることができないのです。世界歴史の実体が捉えられなければ、人間が生きているということの説明ができないのです。
宗教ではない真理、絶対真理を学んでいるという人がいますが、ユダヤ人問題が分かりますかと聞けば、説明できないのです。どんな学者でも、どんな専門家にでも、ユダヤ人問題が分かっていますかと聞いても、返事ができないのです。
大体、ユダヤ人問題が分からない人が、分かったようなことをいうことが間違っているのです。ユダヤ人がいなければ、今の歴史はないのです。ユダヤ人問題が分からなければ、本当の命は分からないのです。こういう考え方を全体学というのです。専門学ではないのです。何にでも通用する、何処にでも通用する、いつでも通用する、誰にでも分かることを全体学というのです。
全体学を勉強しなかったらだめです。宗教や哲学を勉強している人々が全体学を知らないからいけないのです。宗教家は専門家です。専門家というのは、部分家のことです。部分家はだめです。
他力本願の原理と政治経済の原理とを、どのようにして一つにするのかということです。ドイツ観念論と親鸞の信仰を、どのように一つにするか。こういうことが説明できなかったらだめです。それはできないと言ったら、全体学にはならないのです。
イエスが分かれば全体学が分かるのですから、何でも説明ができるのです。イエスはすべてのすべてであると聖書に書いているのです。イエスはザ・キング・オブ・ザ・キングス(the king of the kings)です。だから、何でも分かるのです。
今、世界に必要なものは、ザ・キング・オブ・ザ・キングスの再発見です。ナザレのイエスの再発見です。これしかないのです。これをする以外に、命を掴まえる方法はありません。
こういうことは、阿弥陀経や三部経にも書いています。大無量寿経にも書いているのです。阿弥陀如来は命の根源であり、知恵の根源であると言っているのです。
命の根源であり、知恵の根源であるのなら、そのような勉強をしなければいけないのです。無量寿如来、無量光如来を信じるなら、知恵も命も分かるはずです。
阿弥陀経とアメリカ経済の関係はどうなるのかです。こういうことが分からなければ、だめです。科学の問題でも、政治、経済の問題でも、人間の魂の問題の関係をきちっと説明できなければいけないのです。
人間は生きていながら、命が分かっていない。こういう人は地獄へ行くに決まっているのです。命の有難さを知らないから、地獄へ行くことになるのです。
宗教をいくら信じてもだめです。宗教は神の前では一切通用しないからです。神は厳然たる実体です。人間の観念は一切通用しません。全体学以外のものはだめです。
宗教は専門学です。仏教も専門学です。自力とか他力、真言というと、専門学がさらに分派したものです。キリスト教も専門学です。ローマ法王は専門学のシンボルです。
もっと高い立場から言えば、全体というものもないのです。一即多であり、多即一であって、部分というものもないのです。例えば、法律の勉強をしたとします。本当の法律が分かったら、それから出るのです。
「堂に入って堂を出る」という言葉があります。表から堂に入るのです。そうして、お堂の裏へ抜けてしまうのです。一つの堂を通れば、すべての堂を通ったのと同じ結果になるのです。
例えば、他力でもやりきってしまうと、自力になってしまうのです。自力をやりきってしまうと、他力になってしまうのです。これが全体です。
拝むということでも、本当に拝めたら偉いのです。ところが、本当に拝まずに、自分が拝んでいるのです。これはまだ本当に拝んでいないのです。
宗教は皆自分が拝んでいるのです。自分が信じるのです。自分が祈るのです。これは全部だめです。
あれほどの達人の親鸞でさえも、仏教という枠から完全に出ることができなかったのです。歎異抄を読んでみますと、仏教という枠から出たいということをしきりに思っていたのです。
自然法爾の文を本当に親鸞が書いたとしたら、大したものです。しかし、自然法爾は宗教的な角度からの概念であって、世界歴史の実体ではないのです。自然法爾が本当に分かると、人間としての悟りは分かりますが、世界歴史の説明ができないのです。ユダヤ人問題が分からないのです。共産主義のことが説明できないのです。それではだめです。
親鸞が自然法爾の文を書いたとして、これは自然と人間との関係を抽象的に捉えたことになりますが、人間歴史の実体が説明できないのです。例えば、日本という国があることの説明ができないのです。
親鸞は日本人でしたが、日本人であることの縁起の説明ができなかったのです。このことは日蓮にも言えるのです。日蓮は立正安国と言っていますが、世界全体のことが考えられなかったのです。こういう思想は今では通用しないのです。
世界のことを知らずに政治をしていますから、日本の政治は頼りないものです。世界全体のことを知らずに政治をすることが、間違っているのです。公明党の世界観は非常に小さいものです。
皆様が現在生きているということは、自然法爾の結晶であると同時に、世界歴史の実体です。私たちの心臓が動いているということは、自然法爾の実物であると同時に、世界歴史の実体です。
私たちは今生きているという格好で、世界の歴史を造っているのです。会社を経営している方は、文明の流れと同時に、世界歴史の一部において、会社経営をしているのです。
厳密に言いますと、会社の動きは歴史の動きの中に織り込まれているのです。世界歴史の中の一員として生きているのです。従って、世界歴史に対する正当な認識がなかったら、人間としての正当な認識があるとは言えないのです。
命が分かると何でも分かるのです。私はでたらめを言ったり、ほら吹きではないのです。本当の命は一即多、多即一であって、一が分かると全部分かるのです。
本当に阿弥陀如来が分かったら、聖書が全部分かるのです。聖書が分からない阿弥陀如来の分かり方は、まだ本当に阿弥陀如来が分かっていないのです。
イエス・キリストが本当に分かったら、阿弥陀如来の説明が完全にできるのです。阿弥陀如来が分からないようなキリストの分かり方は、間違っているのです。
一は全部です。全部は一です。皆様には本当の命を掴まえて頂きたいのです。
一期一会とは何か。千利休が考えたのは、茶の心得としての一期一会を説いていたと思えるのです。利休が仏の心をどのように感じていたのかということです。また、自分の命をどのように見ていたのかということです。
利休がもう少しスケールの大きい人物だったら、切腹はしなかったと思われるのです。利休は了見が狭かったのです。彼は茶に関しては達人でしたが、人間としては未完成でした。
お茶でもお花でも何でも分かる人になって頂きたいのです。一期一会というのは、お茶だけのことではないのです。皆様が現在椅子に座っているということが一期一会になるのです。これが分からないと、本当のことが分かったとは言えないのです。
お茶だけではない、コーヒーを飲んでいても、一期一会が分からないといけないのです。お茶をしなければ一期一会にならないのではだめです。
(内容は梶原和義先生の著書からの引用)