top of page
検索
  • emeraldnoniji2016

人空とは何か

 人空とは人間が存在することが空だというのです。これには我空と生空があるのです。自分がいないというのが我空です。また皆様が生きているということがないのです。これが生空です。これが釈尊の本当の悟りです。

 人空が分かりますと、初めて神の約束の偉大さが分かるのです。

 地球が自転公転している、太陽が輝いている、雨が降ることが宇宙の生命現象です。こういうことは神の約束を原理にして存在しているのです。地球を地球としている力、太陽を太陽としている力が本当の命です。この命を皆様が経験しているのですから、皆様が虚心坦懐になって考えれば、皆様自身が神の実物を摑まえることは必ずできるに違いないのです。私にできたことが皆様にもできるに決まっているのです。私みたいな者にできたのですから、皆様にも当然できるのです。難しく考えないで気楽に考えたらいいのです。

 私は宗教教団に入りなさいと言っているのではありません。宗教団体から出ることをお勧めしているのです。そうして、命の勉強をして頂きたいと言っているのです。

 円相が人生全体です。死んでからどこへ行くのか。死んだら前世に帰るのです。生まれる前の所に帰るのです。神から出て、神によりて成り立っていて、神に帰るのです(ローマ人への手紙11・36)。これが人間の一生です。哲学的にこのような論理を言っている人がいますけれど、論理ではなくて実体の説明が必要です。

 人間の命の内容を考えて頂きたい。例えば皆様の理性がどのように働いているのか。ハートとマインドの関係です。これを勉強して頂きたいのです。

 皆様が現在生きている命の実物をしっかり掴まえて頂きたいのです。皆様はそれをしっかり把握していないことを自覚して頂きたいのです。

 皆様は自我意識によって生きている状態ですから、死んでいるのです。死んでいる状態ですから危ないのです。このことを率直に皆様にご忠告申し上げたいと思うのです。

 般若心経に空という字がたくさんあります。旧約聖書伝道の書に、「空の空、空の空、一切は空である」という空があります(1・2)。般若心経と旧約聖書伝道の書の関係ですが、よく似た所と違った所とがあるのです。旧約聖書の空は、知的な角度から述べているのです。

 旧約聖書の伝道の書とか、箴言はダビデ王の子のソロモンが書いたものと言われているのです。

 ソロモンは非常に頭が良い人でした。普通の学問よりもはるかに高い感覚で、物理や哲学で物事を直感していたのです。持ち前のすばらしい英知に基づいて書いたようです。

 ソロモンが述べている空というのは、虚しいものだという意味です。人間がしていることは虚しいものだということを基礎にして述べているのです。雨の下において人間のなす所はすべて風を掴まえようとして努力しているようなものだと言っているのです。

 人間の努力はすべて虚しいものだと言っているのです。ところが、般若心経の空は、人間の五蘊が空だと言っているのです。人間の考え方が空だと言っているのです。

 般若心経の終わりの方に究竟涅槃という言葉があります。究竟涅槃という言葉は、サンスクリットでニル・バー・ナーと言いまして、これを中国で涅槃と訳したのです。

 ニル・バー・ナーというのは、冷えて消えてなくなることです。蝋燭の火がふっと消えてしまう状態が涅槃です。

 人間の思想は元来、蝋燭の火のようなものであって、一陣の風が吹けば、すっと消えてしまうのです。現世の自分の命が消えた後に、本当の命が分かるという思想を指しているのです。

 涅槃というのは指標でありまして、あちらの方だということを指差ししているのです。

 究竟涅槃というのは人間が考えている人間や万物は存在していないということです。一切空であって、五蘊皆空であって、向こう岸(彼岸)に何かがあると言っているのです。

 向こう岸(彼岸)に何があるのかと言いますと、法があるというのです。ところが、法の説明は仏教ではできないのです。宇宙がなぜ存在するのか。このことは仏教では説明できないのです。例えば、華厳経とか、維摩経では森羅万象の中にたくさんの仏があることを書いています。千々万々の仏があることを説いています。

 千々万々の仏とは何かと言いますと、一輪の花の中にもたくさんの仏があるのです。花の形も一つの仏ですし、色も如来さんです。花の香りがあります。花の中に味とか栄養価があるのです。一輪の花の中にもたくさんの仏があるのです。これが法です。

 これを知るためには、現在の人間の常識を空じてしまわなければいけないのです。常識は迷いです。迷いを捨ててしまわなければ、法が分からないのです。そこで、究竟涅槃と言っているのです。こういう意味での空があるのです。

 ソロモンが言っている空は、人間の生活は虚しいものだということです。目的は般若心経と同じですけれど、ソロモンの方は虚しさを説いているのです。釈尊は空の実体はこれだと言っているのです。究竟涅槃を言いたいのです。この点が違っているのです。

 宗派神道というのは、本来の日本の純粋の神道とは少し違うように理解しています。似たような所はあるでしょうけれど、教義が違っているのです。

 太陽というのは聖書的に言いますと、一つの被造物になるのです。造られたものです。太陽は永遠不滅ではなくて、いつか消滅します。永遠無窮という訳にはいかないのです。

 太陽は現在目で見えるものです。目で見えるものはいつかなくなるのが道理でありまして、実は本当の空と言いますのは、太陽よりも大きいのです。日本という国が存在する前から、日本の神道が存在する前から宇宙はあったのです。

 どうして太陽が太陽であるのか。実は太陽を中心にして太陽系宇宙ができています。地球に万物が存在するのも、すべて太陽の恵みです。

 地球の物理的な命は太陽が非常に大きいウエイトを占めているのです。ほとんど太陽のご利益みたいなものだと言えるでしょう。このことは聖書にも書いていまして、太陽は神の特別の被造物であって、地球を地球とするためには太陽が絶対に必要です。しかし、太陽は神ではないのです。

 太陽は現世における命です。現世の生物を生物として生かしている力は現世的には太陽によるのです。

 命と言いましても現世の命ではありますけれど、未生の命ではないのです。未生とは私たちがこの世に生まれる前の命です。これは太陽に関係がありません。来世にも関係がありません。

 太陽は現世に生きているという意味での大きい原則であると言えますけれど、未生、現世、米世全体から考えますと、また、宇宙の永遠から考えますと、太陽も一つの空であることになるのです。

 日本には日本の宗教がありますから、信じるのは自由ですけれど、日本の国は地球あっての日本です。日本が地球よりも偉いのではありません。

 かつて日本の軍閥が、日本の天皇は地球よりも偉いと言っていますが、こういう考え方はひいきの引き倒しでありまして、実は日本の天皇位というものはそんな簡単なものではないのです。日本の天皇位は旧約聖書に非常に関係が深いのです。

 太陽のエネルギーとは何であるのか。何のために太陽のエネルギーが地球だけに有効に働いているのか、火星や金星にも太陽エネルギーが降り注いでいるけれども、生物は全く存在していません。なぜ地球だけに生物現象があるのか。

 地球全体が一つの生物になっているのです。地球にだけなぜ生物現象があるのか。なぜ太陽が地球にだけ働いているのか。これが神の約東の原理です。宇宙が宇宙であることの根本、太陽が太陽であることの根源が神の約東です。

 教えと真実とは違います。なぜ違うのかと言いますと、教えは一種の翻訳的なものでありまして、道標のようなものです。実体は実体です。実体と教えとは違うのです。

 教外別伝、千聖不伝、声前の一句という言い方があります。日く言い難しとも言います。禅的な角度からですと、日く言い難しで通用するのです。

 聖書の角度から言いますと、日く言い難しでは通用しないのです。できる所まで説明できるのです。例えば、神の実体についても説明ができるのです。

 キリスト教は神の説明を絶対に致しません。教義では神の実体に触れることはできないのです。教義はどこまでも教義です。実質そのものではありませんから、教えにはなりますけど、実体にはならないのです。

 神の実体ですが、キリスト教で神とは何かと聞きますと、神は信じるもので、理屈で割り切るものではないと言います。キリスト教の教義には神の実体の説明が全くありません。神は存在するということを初めから押しつけるような態度を取っているのです。

 これはキリスト教としてはやむを得ないのです。仏教にしても、法(ダルマ)は何かと聞きますと、法は法だと言うのです。それ以上答えないのです。法は法で絶対なのです。

 キリスト教にとって神は絶対です。絶対に対してかれこれ説明しなさいという言い方がけしからんのです。叱られることになるのです。

 ところが、聖書には説明しているのです。教えは何のためにあるのかと言いますと、道標のためにあるのです。例えば野球で言いますと、トレーニング、練習みたいなものになるのです。本番の試合とは違うのです。練習試合とかシートノックをしているのです。これが教義です。

 教義をしっかり勉強することは必要なことですけれど、教義に救いがあるのではないのです。教義に本当の悟りがあるのではないのです。悟りは悟り、救いは救いです。神の実物を掴まえなければだめです。

 神の実物は何かと言いますと、ザ・ネーム・オブ・ゴッド(the name of God)という言葉があるのです。神の名前が神の実体です。神の名前、イエスの名前、キリストの新しい名前があるのです。

 イエスというのは名号でありまして、阿弥陀如来のようにイエスの名号はそのまま救いになるのです。他力本願の教義は、新約聖書の教義から相当大きい影響を与えられたものと想像されるのです。

 教義はある一つの方向を目指していることになるのです。しかし実体ではないのです。

 神の名とは何か。イエスは「祈る時に神の御名を崇めさせたまえと言いなさい」と言っているのです。神の名を崇めるとはどういうことなのか。キリスト教では神の御名をはっきり説明しないのです。

 御名を崇めなさいとは言いますけれど、御名とは何か。どうしたら御名を崇めることになるのかを説明しないのです。私は現在それを実行しているので申し上げられるのです。

 新約聖書のヘブル人への手紙の十一章六節に、神がイズ(is)であることを信じなければならないという言葉があるのです。

 英沢でmust believe that he isになっています。神に来る者は神がイズであることを信じなければならないとあるのです。これが神の実体です。

 英語でいうビー動詞のam are isが神の実体です。皆様が人間であることが神です。あることがイズです。これが神です。

 神に来る者は、神がイズであることを信じなければならないとあるのですが、これがキリスト教では全然分からないのです。神が分かっていないから聖書が全然分からないのです。

 私が私であることが神です。あなたがあなたであることが神です。モーセが神に向かって、あなたの実質は何ですかと尋ねたら、神は「アイ・アム・ザット・アイ・アム(I am that I am.)と答えたのです(出エジプト記3・14)。

 地球が地球であること、太陽が太陽であることが神です。太陽が神ではありません。太陽が太陽であることが神です。地球が地球であることが神です。これが本当の神です。

 現在皆様の心臓が動いていることが神です。これが神の実物です。実物と教義とはこのように違うのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

閲覧数:17回0件のコメント

最新記事

すべて表示

はじめに

般若心経は日本人に大変愛されていますが、本当の意味が全く理解されていないのです。 日本人は生活については非常に熱心ですけれど、命についてはほとんど考えようとしない悪い習慣があるのです。これは日本人だけでなく、現代人全体に言えることです。 全世界の人間は生活のことは考えています。政治経済のことは熱心にに考えますが、命のことは真面目に考えようとしていません。これが文明の根本的な間違いですが、それがその

般若心経は宗教書ではない

般若心経は一般の人々には仏教の経典であると思われていますが、実は宗教書ではありません。人間が現世に生きていることの見方、人間の正当な認識のしかた、悟りのしかたを述べているのです。 現世に生きている人間を正しく見ていきますと、一切空になるのです。肉体的に生きているということは、生きていると思っているだけです。目で見ているものがあると思っている。自分の思いがそのまま皆様の命になっているのです。これは生

般若心経は人間を叱っている

般若心経をご覧ください。般若心経の文句を読んでみますと、人間が生きている状態を真っ向から叱っていることが分かるのです。落ち着いて般若心経をお読みになれば、皆様ご自身がこっぴどく叱りつけられていることを感じるはずです。 五蘊皆空、色即是空、空即是色、究竟涅槃という言葉は、現在人間が生きている状態を、痛烈に叱りつけているのです。 ところが、般若心経を仏教の経典だと考えているために、いくら叱られてもさっ

bottom of page