人間が本当に分かったと思うことは、自分が涅槃になってしまうことです。遠離一切顚倒夢想 究竟涅繁であって、人間の考えは皆、顚倒夢想しているのです。
人間が肉体的に生きている状態で花を見た場合、例えば、黄色い花を見たとします。しかし、この花は黄色ではないから黄色に見えるのです。葉も緑ではないから緑に見えるのです。
緑の葉はその緑を拒んでいるから緑に見えるのです。その緑を拒否していて、拒否されたものが、人間の網膜に当っているのです。そこで、緑に見えるのです。緑の葉は緑色ではないことを証明するために緑に見えるのです。
人間が受け止めている心理状態と、物事の存在状態とは正反対です。黄色に見えるのは、黄色を拒否しているのです。黄色を排除しているから、排除された色が網膜に当っている。そこで、黄色に見えるのです。
黄色ではないから黄色に見えるのです。皆様が肉体的に生きているという条件は、ネガフィルムみたいなものです。白が黒く映っているのです。黒が白に映るのです。ネガフィルムを焼き付けると白は白、黒は黒の写真ができるのです。
構造色という発色の仕組みがあります。自然界には輝くような色の生物が沢山います。昆虫ではモルフォチョウ、玉虫、鳥ではクジャク、ハチドリ、魚では熱帯魚を中心に、ネオンテトラやルリスズメダイ、タコ、イカ、アワビの貝殻、また植物の種子や花びらなど沢山あります。
これらの生物が放つ鮮やかな色は、構造色と呼ばれる発色の仕組みです。色素による吸収の色ではなくて、光の波長程度の微細な構造が、干渉や散乱などの光学現象を起こして、そのものには色が全くないのに、色があるように見えるのです。これがバイオシメティクスの原理です。
皆様はこの地球上で世間並に生きている間は、遠離一切顚倒夢想で生活して頂きたいのです。皆様の常識、知識はすべて顚倒夢想しているのです。逆立ちしているのです。
皆様が般若心経が好きなら、もっと丁寧に読んで頂きたいのです。皆様には丁寧さが足りないのです。一杯の水を飲むにしても、丁寧さが足りないのです。
歩くにしても丁寧に歩いて下さい。丁寧に歩くと、自分が歩いているのではないことが分かるのです。丁寧に生きるのです。丁寧に生きるということは、自分自身の生活と思って生きないのです。生かされている生活を生きるのです。生かされている命を生きるのです。
丁寧に歩く、丁寧に座る、丁寧に食べる、丁寧に寝るということだけで、とこしえの命がありありと分かってくるのです。
生まれる前の命を今生きていることが、はっきり分かるのです。以前にテレビの番組で放映していましたが、胎児は母親の胎内で血液の流れを聞いているのです。生まれた後の胎児が泣いている時に、母親の胎内の血液の流れの音を聞かせると、すぐに泣き止んで、すやすやと眠るのです。
私は何を皆様にお話ししているのかと言いますと、皆様が生まれる前に持っていた本当の命を述べているのです。生まれる前の命は死なない命です。生まれてからの命は死ぬ命です。
皆様が今、現在生きているということは、五官の働きによるのです。五官の働きというのは、生まれる前の命の継続です。生まれる前の命をもう一度思い起こして頂きたいのです。
今生きているということの中に、生まれる前の命があるということが分かりますと、本当の守護の神が分かるのです。自分と一緒にいる天地創造の神が分かるのです。宗教でいう守護の霊という頼りないものではないのです。そういうばかなものではないのです。守護の霊というのは、宗教の造り物です。
皆様が今甘いものを甘いと思っていることは、この世に生まれてからの感覚ではありません。皆様の舌は生まれてすぐに、おいしい味とおいしくない味が分かるのです。そういう味覚神経は最初から皆様に備わっているのです。
これは物心がついてからの味覚ではないのです。物心がつく前の味覚です。皆様の五官の根本は、神が皆様に植えた驚くべき能力です。生まれる前に、神が直々に植えた超能力です。これが皆様の五官の本体です。
皆様が目で見ていること、聞いていることの有難さがどんなものであるのかを知って頂きたい。それがそのまま死なない命であることを知って頂きたいのです。
現在、皆様が手で触ったり、味わったり、聞いたりしているのは、皆様が生まれる前に神に植えられた本当の命の実物を経験しているのです。これを皆様は考えずに、善悪利害得失ばかりを考えてきたのです。
皆様はせっかく神に植えられた本当の命を持っていながら、目で見ているとはどういうことか、舌で味わっているとはどういうことかが全く分からない人間になっているのです。だから、皆様の霊魂は死んでいると言わなければならないのです。
皆様はもう一度、生まれたばかりの清浄潔白な赤ちゃんの状態に帰って頂きたいのです。本当の命を持っている状態に立ち帰って頂きたいのです。
この世に生まれてから後の皆様の命は死ぬに決まっている命です。ただ死ぬだけでなくて、死んでから必ず地獄へ行く命です。
現に、皆様は死なない命を持っているのです。これをザ・リビング(the living)というのです。ところが、皆様はザ・リビングによって生きないで、常識によって生きているのです。これがいけないのです。だから、分かったとか分からないとかを言われるのです。
ところが、本当のことを知りたい、本当の生きがいを聞いたら納得できるというのですが、これが間違っているのです。現世に生まれて、現世で与えられた物心で長い間生きている皆様が、知りたいと言っているのです。これが間違っている皆様の考えです。間違った自分が、納得したい、理解したいと考えているのです。
皆様をいくら説得しても、皆様の霊魂は目を開かないのです。人間である皆様と、皆様の霊魂とは違うのです。これに気づいて頂きたいのです。
魂というのは生まれながらの命のことです。人間というのは、この世で生きていた常識による人です。常識人間がいくら分かっても、いくら救われたと思っても、神の前には一切通用しないのです。神の前に通用する人を見つけて頂きたのです。
この世の常識でいくら分かったと言っても、この世だけのことです。死んでしまったら、全く役に立たないのです。私は永遠に役に立つものをお話ししたいのです。これは何かと言いますと、生まれながらの五官の感覚です。
皆様に本当の命の目を開いて頂きたいのです。今の人間は生活はしていますが、全く盲目になっているのです。命が見えなくなっているのです。私は皆様に命の目を開いて頂きたいと願っているのです。
皆様は私の話を何とか理解したいと努力しています。しかし、いくら努力してもだめです。死んでしまうに決まっている人間が努力しているからです。死んでしまう自分ではない、もう一人の人を発見して頂きたいのです。
別の人を見つけるのです。自分ではない他分を見つけるのです。神の子である自分です。死を破ったイエスと同じ人格を見つけて頂きたいのです。死を破って復活した人格です。キリスト紀元という新しい世界歴史を造った人です。この人の命と同じ命が皆様にあるのです。これを見つけて頂きたいのです。
イエスは死を破ったのです。彼は生まれながらの命で生きたからです。生まれながらの命というものを見つけることができるなら、生まれてからの命はどうでもいいのです。
生まれてからの命、後天的な命は死ぬに決まっている命です。後天的な命から、先天的な命に移ってしまうのです。天に帰ると言ってもいいのです。生まれながらの自分に還元するのです。これをお話ししたいのです。
パウロは、「肉の思いは死であるが、霊の思いは命と平安とである」と言っています(ローマ人への手紙8・6)。また、七節には、「肉の思いは神に敵するからである」とあります。この六節が新約聖書全体の結論になるのです。
肉の思いとは何かと言いますと、現世で自分が生きているという思いです。今まで現世で自分が生きてきた。今も現世の自分が生きていると思っているのです。
肉の思いというのは、肉体的に自分が生きているという思いです。人間の常識、知識です。皆様が常識、知識で生きている状嘘では、魂が全く分からないのです。魂が沈黙しているのです。常識、知識によって魂が沈黙しているのです。もっとはっきり言いますと、魂が殺されているのです。魂が絞め殺されているのです。
人間の常識は恐ろしいものです。これを悪魔の知恵というのです。悪魔の思いともいうのです。人間は悪魔の思いを自分の思いと思っているのです。悪魔の思いを担いでいるのです。
魂は神の子です。人間は悪魔の思いによって、神の子を絞め殺しているのです。私は皆様の中にある神の子の目を開いて、神の子の目が見えるようにしたいのです。そうしたら、悪魔の思いを踏みつけることができるからです。
皆様が今まで生きていた悪魔の思いを、活用する方法があるのです。皆様が今まで生きていた命を踏み台にすればいいのです。しかし、今までの常識で生きていると、皆様は必ず死んでしまいます。
今まで皆様は、神に逆らっていたために、この世を去ってから徹底的に裁かれるのです。これが怖いのです。
ただ死ぬだけなら何でもないのですが、死んでから必ず裁かれるのです。それは、生きている間に魂を踏みつけて、虐待を続けてきたからです。神の子をひどい目にあわしてきたからです。
自分が救われたい、自分が幸福になりたい、自分が分かりたいと考えていたのです、自分が悟りたい、自分が理解したい、自分が納得したいと考えてきたのです。これがいけないのです。
自分が分かっているというのは、悪魔が分かっているということです。昔、人間の腸の中に寄生虫がいました。七メートル、十メートルものサナダ虫がいて、食べたものの栄養をどんどん奪っていくのです。
皆様の常識、知識は皆様の中にへばりついているサナダ虫です。これを私は徹底的に退治したいのです。
禅宗のお坊さんが失敗するのは、自分の整理の仕方が不徹底なのです。般若心経は一切空と言います。五蘊皆空、究竟涅槃と言っていますが、涅槃というのは冷えて消えてなくなってしまうことです。般若心経を読んでいるお坊さんが、冷えて、消えて、なくなったつもりでいるのです。ところが、別の人格を掴まえていないから、だめです。
消えてしまうのは結構です。消えてしまって、別の人格を掴まえていないために、また、元に返ってしまうのです。捨てるのは結構ですが、その後が悪いのです。コップにある古い水を捨てたのはいいのですが、新しい水を入れておかないと、また、古い水が戻ってくるのです。
般若心経の空というのは、非常に良い思想です。全世界の文化の中で、般若心経ほど優れた思想は他にはありません。
般若心経は世界文明の中で、冠たる文化概念です。人間の考えは一切空だと言っているのです。これはすばらしい思想です。空というのは、空っぽになったということです。空っぽになったら何を入れるのか、入れずに放っておきますと、ごみだらけになるか、ばい菌が入るか、碌でもないことになるのです。
仏教ではこの解決方法がないのです。空っぽにすると言います。本当は空っぽにはしませんが、白隠禅師でも自分の考えを放下したのは良かったのですが、自分の考えに変わる本当のものを持ったのかと言いますと、持っていないのです。ただ空っぽになって終わりです。だから、白隠の弟子、その孫弟子も全部だめになったのです。白隠でさえも本当のことが分からなかったからです。
一休和尚もそうです。あれだけの達人でもだめでした。すべてのものを捨ててしまった。しかし、どうしても捨てられないものがあった。これがセックスです。一休和尚はセックスが大好きでした。空っぽになれなかったのです。
空っぽになったら、何を入れるのかです。何かを入れなければいけないのです。何も入れずに放っておくからだめになるのです。何も入れずに放っておいたら、捨てる前よりもっと悪くなるのです。禅宗のお坊さんの間違いはここにあるのです。
色即是空、空即是色ですべてを放下した。一切空になったのは良かったのです。しかし、一休和尚は本当の命を入れなかったために、だめになったのです。
白隠も一休もやはり宗教を信じていたのです。釈尊は明けの明星を見ているのです。釈尊は自分自身の妄念を全部出したのです。そうして、明けの明星をはっきり入れたのです。これが良かったのです。
釈尊のように明けの明星を入れた人は、本当のことが薄々分かったのです。これが三人の学者に伝承されたのです。インドからはるばるユダヤのベッレヘムへ、イエスの誕生をお祝いに行ったのです。この秘密が世界中の宗教家、哲学者に全然分からないのです。
釈尊入滅後、五百年経過して、インドから三人の博士が、ユダヤのベツレヘムに行った。イエスの誕生を祝っているのです。この秘密が分からないのです。
本当の悟りとは何か。明けの明星です。悟っただけではだめです。明けの明星を受け入れなかったらいけないのです。
聖書には、「あなたがたも、夜が明け、明日がのぼって、あなたがたの心の中を照らすまで、この預言の言葉を暗闇に輝くともしびとして、それに目をとめているがよい」とあります(ペテロの第二の手紙1・19)。
これが分からないのです。世界中のキリスト教の牧師に、明けの明星が分かる人が一人もいないのです。仏教の方でも明星の説明ができるお坊さんは一人もいないのです。
明けの明星をどうして自分の中に見るかについて、説明ができる牧師さんが一人もいないのです。
世界中の仏教もキリスト教も、明けの明星によって一つになるのです。東洋文明の心髄は釈尊の悟りです。西洋文明の心髄はイエス・キリストの誕生です。キリストと仏陀が明けの明星によって一つになるのです。この秘密が世界中の文明に分からないのです。
キリスト教ははっきり間違っているのです。ユダヤ人のモーセが間違っていたのです。モーセの律法の間違いと、キリスト教神学の間違いとがあるのです。だからユダヤ人が指導している白人が間違っているのです。
私たち日本人が、モーセの間違いとキリスト教神学の間違いを指摘しなければならないのです。
世界の文明を新しくする決め手が明けの明星です。これが全世界の人間を救う決め手です。
肉の思いは死であるが、霊の思いは命であり平安であると言っています。肉の思いによって生きているから、死んでしまうのです。霊の思い方へ鞍替えしたらいいのです。
生きているということを見ないで、生かされているということを見るのです。柔和謙遜になるのです。そうしたら、大胆不敵な人になれるのです。
本当の命とは何かと言いますと、皆様が鼻から息をしていることです。これが本当の命です。今、心臓が動いていることが命です。これをリビングというのです。生きていることがリビングです。
生きているということが命の本物です。現在、皆様の心臓が動いていることが生きていることですが、これをよく見ようとしないで、ただ漠然として命を抽象概念のように考えている。
私が、「命とは何でしょうか」と皆様に質問したとします。皆様は立ったり、座ったり、動いたり、走ったりすることだと言うでしょう。これが概念です。本当の命とは心臓が動いていることです。これがリビングです。正確に言いますと、ザ・リビングです。ザ・リビングというのが本当の命です。これだけがあるのです。
ザ・リビングが皆様の本体です。固有名詞の人間はどうでもいいのです。心臓が動いていることが皆様の命の本体です。加藤さんという固有名詞の人間は抜け殻です。これを本当の自分だと思っているから、死ななければならないのです。
心臓が動いていることが自分の本体だということが分かりますと、イエスの復活の命がはっきり分かるのです。イエスが復活したとはどういうことかが分かるのです。
心臓が動いていることが死なない命のしるしです。心臓は、オギャーとこの世に生まれた瞬間から、今もなお動いているのです。一度も止まったことがないのです。
心臓が動いているということが、後天的ではない命、先天的な死なない命のシンボルになるのです。心臓が動いていることの実体を見つけたらいいのです。
皆様の心臓が動いているということは、神の命で動いているのです。自分の命ではないのです。神の命が心に宿っているのです。このことに気がついたらいいのです。
神とは何か、人が存在しているということが神です。ありてあるということです。有りて在るのです。有なり在なりです。これが皆様の本体です。固有名詞の自分ではないのです。
存在と命とは同じものです。存在と命は裏表の関係で同じものです。これが皆様の本体です。
固有名詞の自分がいるのではありません。平明な気持ちになったら分かるのです。死んだら負けです。いくらお金を儲けても、何億円の生命保険に入っても、死んだら負けです。絶対に死んだらいけないのです。
皆様は現在、死なない命を持っているのです。オギャーと生まれた時から心臓が動いていますから、この命を本当に悟ったらいいのです。そのためには、イエスを勉強しなければならないいのです。これは仕方がないのです。
これはキリスト教の勉強をするのではありません。イエス自身を捉まえるのです。イエス・キリスト様を信じるのではない。イエスという男を掴まえるのです。
カトリックのキリスト様は金縁の額に入っているからいけないのです。額縁に入っているキリストは小便をしないキリストです。これは宗教概念のキリストです。小便をするキリストを掴まえなかったらいけないのです。
男性は女性に惚れた経験があるでしょう。その経験を生かして頂きたいのです。神に惚れるのです。神は現在、皆様に惚れているのです。神が皆様に惚れているのに、皆様はそれに対して全然快く思わないのです。もったいないことです。
全知全能の神が皆様に惚れていることが分からないのでしょうか。神が皆様に惚れている証拠に花が咲いているのです。
神は花を咲かせて、おいしいものを食べさせて、皆様を喜ばせようとしているのです。神が皆様の魂にどれだけ惚れているかです。
花が咲いていることは、神のラブコールです。神が愛の信号を送っているのです。マグロの味、鯛の味、牛肉の味、果物の味は、五官を通して、人の魂に呼びかけているのです。
五官は人間と神との媒体をしているのです。聴覚、視覚、味覚は、神のラブコールを皆様の魂に伝達しているのです。
鰻屋さんの前を通れば、おいしそうなにおいがします。神のラブコールが分かるのです。こんなに神が皆様にラブコールしているのに、人間は全然気が付かないのです。悪いのは人間です。
人間が現世に生きていたら、神の愛をはっきり受け止めるはずです。ところが、受け止められていない。肉の思いで生きているから、受け止められていないのです。
肉の思いは死です。皆様の常識が皆様の魂を殺しているのです。どんな上等な常識でもだめです。この世に通用するものは、神には通用しないからです。神に通用するものは、この世に通用しないのです。
私はこの世に通用しないことをお話ししているのです。この世に通用しない神の思想を申し上げているのです。
この世と神の国とは根本が違います。死ぬべき命と死なない命とは、根本的に了見が違います。私の方から神の思想を値下げしてお話ししたら分かりやすいのですが、値下げすると、宗数になってしまうのです。
宗教になったら皆様はすぐに分かるのです。キリスト教のようなことを言えば良いのですから、皆様は大歓迎するでしょう。その代わりに、皆様は本当の命を掴まえられなくなるのです。
肉の思いで生きていたら、必ず死んでしまうのです。皆様は赤ん坊です。皆様は自分が赤ん坊だということが分からないのです。
皆様は分かっていると思っているのです。いろいろなことを経験したと思っています。これが間違っているのです。五十歳の方は五十年の人生があると思っています。五十年間生きてきたと思っています。これが間違っているのです。人間が生きているのは、瞬間、瞬間です。瞬間しか生きていないのです。
人間は毎日生きているということを通して、本当に素晴らしいことを教えられているのです。神から教えられているのです。
(内容は梶原和義先生の著書からの引用)