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  • emeraldnoniji2016

諸行無常


 諸行無常というのは、日本人の独特の世界観です。かつて、インドやミャンマーにも諸行無常という考え方があったに違いないのですが、現在ではそういう思想はなくなっているのです。

 日本文化の中には諸行無常という概念が非常にはっきり取り上げられているのです。

 有名な平家物語は次のような文句で始まっているのです。

  「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり

   沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらわす

   おごれる人も久しからず ただ春の世の夢のごとし

   たけき者も遂には滅びぬ 偏に風の前の塵に同じ」

 諸行無常が平家物語全体のバックボーンです。諸行無常という思想がなかったら、平家物語が成立しなかったかもしれないのです。日本文化にはそれほど諸行無常という概念が強くあるのです。

 徳川家康が、「厭離穢土欣求浄土」という軍旗を掲げて戦争をしていたのです。現世は嫌だから浄土へ行きたいという旗を掲げて戦っている人が、世界にいるでしょうか。日本はそういう国です。

 ですから、聖書の本当の見方が、初めて日本から発生することになったのです。現在の世界文明を指導する根本精神は聖書しかないのです。どんな哲学や宗教でもだめです。そういうものでは世界を指導することができないのです。

 西欧人は聖書はこう言っているというと、耳を傾けるのです。多少でも聞く人がいるのです。イエス・キリストがこう言っているというと、外国人は聞かざるを得ないのです。

 ところが、日本人は聖書に一番縁が遠いのです。この日本から聖書の本当の読み方が出現しているのです。これは驚くべきことです。

 世界歴史が日本から新しくなるのです。聖書の見方を一新することが、世界文明の根本的な指導原理になるのです。

 以前に、イギリスに世界の著名人が集まりました。いろいろと話し合った結果、何をどうしたらいいのか分からないというのです。学問ではだめです。理屈でもだめです。結局、ナザレのイエスをもう一度見直すしかない、これをしなければ世界の文明は必ず壊れるということになったのです。

 日本ではこういう結論に到達する人はいないでしょう。それほど日本人は世界の文明に対する見識が低いのです。日本人はユダヤ主義に押さえ込まれているからです。現実主義です。現世主義であって、即物主義的です。

 今の人間は目で見ているものがあると思い込んでいるのです。これが唯物史観の根底の概念です。皆様の中にもマルクスの思想の根底の概念があるのです。これが間違っているのです。

 目で見ているとおりのものがあると思うことが、ユダヤ主義の土台です。ユダヤ人であってもなくても、そういう考えを持っていることがユダヤ主義者です。皆様は知らず知らずにそうなっているのです。それが間違っているということが何となく分かる人でも、どのように変えたらいいのか分からないので、やはり世間並の考えになるのです。

 即物主義、唯物主義は真っ赤な嘘です。物に即して考えるのです。即というのはくっついているという意味です。物にくっついて考えるのです。即物的意識が皆様にあるために、命と言っても肉体を考えてしまうのです。

 命と言ったら、すぐに肉体が頭に浮かぶのです。自分と言ったら、自分の顔が心に浮かぶのです。これが皆様の記憶を地獄の記憶にしてしまうことになるのです。

 皆様の潜在意識、深層意識は皆様の本心、霊魂の本心です。自分の本心の本願とは一体何か。これは即物意識ではないのです。本心の本願というのは、唯物意識ではないのです。

 目が見えるというのはどういうことなのか。心臓が動いているというのはどういうことなのか。この扉を開くものが皆様の本心の特徴です。

 大乗仏教には魂という言葉がないのです。一万七千六百巻という膨大な大乗仏教の仏典の中に、魂という文字が一字もないのです。

 そうすると、極楽浄土へは誰が行くのかということになるのです。肉体を持った自分が行くとは言えないのですから、死んだら誰が行くのか。死んだら自分は消えてしまいますから、誰が浄土へ行くのか。仏典ではこの説明ができないのです。

 大乗仏教の仏典は概念ばかりを羅列しているのです。数字ばかりを並べているのです。これはすべてが人間の概念です。

 仏教の本質は悟りです。悟りとは何かと言いますと、仏です。仏とは、ほとくことです。仏教に悟りはありますが、救いはないのです。だから、魂という言葉がいらないのです。

 他力本願でさえも悟りです。自分がナムアミダブツを悟るのです。阿弥陀如来であることを悟るのです。阿弥陀如来の南無ということは、阿弥陀如来の本質を悟ることです。これが帰命です。

 阿弥陀如来の本質を悟ることを南無というのです。これが帰命です。仏教に悟りはありますが、本当の意味での信仰はありません。仏教に信心はあります。信心とは自分は悟ったと思っていることです。勝手にそう思っているのです。自分は仏さんを信じていると勝手にそう思っているのです。

 そこには客観的な証拠はありません。聖書の信仰は皆様の目が見えることが神だと言っているのです。これを霊というのです。味わい分けることができることが霊です。

 私たちは見ています。見るという機能が目です。目の働きが霊です。「神は霊である」という言葉がありますから(ヨハネによる福音書4・24)、見るということは神を経験しているのです。皆様は神を毎日経験しているのです。神を経験することを生活というのです。見ているということは、神を経験していることです。食べていることは、神を経験していることです。神を経験していることを生きているというのです。これがリビング(living)です。

 素直になって頂きたいのです。素直になって奥さんの勉強をして頂きたいのです。男の人は女の人を勉強して頂きたいのです。

 女性とは一体何なのか。女の格好は何を意味しているのか。男はなぜ女が好きなのか。即物主義の人間はすぐにセックスと考えるのですが、これが間違っているのです。肉体の女だけを見ているのです。

 そうではないのです。女の肉体が持っているムードが色気の本体です。女の肉体が持っているムードとは何なのか。立ったり、座ったり、お茶を出したり、食事を作ったりしてくれる。これが色気です。これは一体何なのかということです。

 奥さんがご主人を信じている。この感覚が主人に分かれば、「天にまします我らの父よ」ということが分かってくるのです。

 奥さんから見たご主人が神です。ご主人から見た神が命です。

 女の色気というのは最も偉大な学です。最も次元が高い学問です。これを勉強するのです。人間は最も次元が高いものを、最も低い性欲にしてしまったのです。これが白人社会の考えです。これが現代文明の基礎になっているのです。

 一番崇高なものを一番下品なものにしてしまったのです。これが西洋文明の悪魔主義です。

 女の値打ちは女の姿、形にあるのです。女が持っている魅力です。きれいと言っても、花のきれいさと、女のきれいさとでは違うのです。

 色気が本当に分からないと男になれないのです。色気が本当に分かると、初めて男の魂の目が開かれるのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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