仏教では因縁所生と言います。因縁でもいいのですが、因縁は何処から来たのかということです。これさえ分かればいいのです。
自分の気持ちを皆様は信じているのです。自分の気持ちをなぜ信じるのでしょうか。
自分の気持ちというのは、自分が自分を騙している気持ちのことです。正直な人は他人を騙しませんが、自分を騙しているのです。自分に騙されるのです。自分に騙されているということが分からない位に騙されているのです。自分を信用しすぎているのです。
なぜ自分を信用するのでしょうか。死ぬに決まっている自分をなぜ信用するのでしょうか。自分は死ぬに決まっていますから、これを信用したら死ぬに決まっているのです。
人間がしているどんな仕事でも、天地の神の計画に適っているのです。神の計画に適っていなかったら、人間は一日も、一時間も生きていられないのです。この世に生きているのは、それぞれの仕事を通して、神の計画の中にあるからです。
自分が生きているということはありません。法蔵比丘というお坊さんがいました。この人が悟りを開いて菩薩になったのです。悟りを開こうとした者、悟りを開くまでの者を法蔵比丘というのですが、この間の事情を正信偈に次のように書いています。
帰命無量寿如来 南無不可思議光
法蔵菩薩因位時 在世自在王仏所
法蔵菩薩が悟りを開いた時の位による時に、この世に生きていることが自由自在になれるというのです。生きていながら主になれるのです。主となるとは王となるということです。
こうなったらいいのです。自分が生きていることは、無量寿、無量光だけが生きていることであって、自分という人間が生きているのではないということが分かったのです。そこで、阿弥陀如来になったのです。
このような気持ちになれば、現世自在王仏所になるのです。この世に生きていることの王になるのです。王になるというのは、死ぬことがなくなるということです。
何でも自由に生きていることが王です。死にたくないと思えば死ななくても良いのです。苦しいとか悲しいということが厭だと思ったら、その考えから抜けられるのです。自分の思いから自由に出られるのです。自由自在になるのです。これが在世自在王仏所です。
これは誰にでも実行できるのです。正信偈を実行したらいいのです。ところが、正信偈だけではだめです。現世に生きている間だけなら何とかなるのですが、死んでからのことはだめです。
この世を去って、死ぬということが負けです。この世にいる間に、死なない命の実物を掴まえてしまうのです。イエスの復活の中へ自分の命を入れてしまうのです。これが死なない命を得ることです。
イエスの中へ入ろうと思ったら入れるのです。自由に入ったらいいのです。信じにくいとか信じられないとかというのは、自分の思いに自分が従わなければならないと思っているからです。
自分の肉体があること、地球があることの根本原理が分からないと、自分が他人に入れ替わってしまうことができないのです。
自分は主観的に生きている人間です。これは死んでいく人間です。他人は客観的に生かされている人です。これは死なない人です。主観的に生きている自分をやめて、客観的に生かされている人になったらいいのです。そうしたら、死なないのです。
なぜ地球があるのか。なぜ人間がいるのか。人間がいるということは、必然的な理由によってあるのです。地球がなければならない理由があって地球があるのです。
この世界には偶然は一つもありません。皆必然です。この理由の根本を勉強するには、天地の創造と人間創造の二つを徹底的に勉強する必要があるのです。徹底的にと言っても、自分ができる範囲内でやるのです。時間がどんどん流れています。現在が過去になり、また現在が過去になっていく。時間とは一体何か。なぜ時間が過ぎていくのか。こういうことを日本人は考えようとしないのです。これは困ったことです。
女の人は聞けば分かるのです。男性は聞いてもなかなか分からないのです。神から見たら人間は全部女です。男の人は女にならなければいけないのです。
男の人は女の勉強をすることが絶対に必要です。
霊魂が肉体として生きている。これがイエスです。イエスが死を破って復活しているのです。永遠に復活しているのです。
人はイエスの妻になるのです。イエス・キリストの妻になるのが、一番上等な人間です。キリストの妻になることが霊魂の運命です。
女になりきれない男はだめです。神は今の男を認めていないのです。今の女の素直さを認めているのです。男は社会的には役に立つのです。しかし、霊的には役に立たないのです。
皆様はせっかくこの世に生まれたのですから、神から貸し与えられている神の命の値打ちを知って頂きたいのです。これは百四十億の脳細胞の値打ちです。百四十億の脳細胞の値打ちが分かりますと、初めてこの宇宙はどういうものかが分かってくるのです。
イエスはどうして復活したのか。イエスはどのように生活していたのかということが、分かるだけの能力を皆様は十分に与えられているのです。
今までの常識、今までの生活上の心遣いばかりに捉われていたために、霊魂に対して働く能力性がほとんどなくなっているのです。
まずこのことを認めればいいのです。生活のことしか考えなかった。世間のことしか考えなかった。この世のことしか考えなかった。これが悪かったということを、はっきり認めることです。
これだけでも、神の御霊の働きはかなり違ってきます。永遠の命のことを考えるべきです。そして、自分の考え方が間違っていたということを考えるべきです。
考え方のスケールが小さかったのです。人間はこの世に生きるために、この世に生まれてきたのではないのです。永遠に生きるためにこの世で神を勉強するために生まれてきたのです。神が万物になって現われていますから、この世で神を勉強するのです。この世で神を勉強しなければ、勉強する所がないのです。
神を勉強するために、霊魂がこの世に出てきたのです。こういうことを日本人は全然知らないのです。全然知らないから、ただこの世に生きていたらいいと思っているのです。
死んでいくのは世間並だから仕方がないと思っているのです。
一度この世に出てきた命は、どうしても自分の責任として、完成しなければならない義務があるのです。私たちはこの世で食べたいと思うものを食べてきました。飲みたいものを飲んできました。着たいと思う服を着て、住みたい家に住んでました。これは神が肉体を持った生活のありかたです。
神が肉体をとったとしても、皆様が同じ生活しかできないのです。皆様は神と同じ生活をしてきたのです。これをしてきた皆様は、万物を治めなければならない責任があるのです。これは知らぬ存ぜぬでは通らないのです。
皆様は今まで人間としてこの世に生きていたのですから、それに対する責任をどうしても果たさなければいけないのです。
伊東深水の絵を見ましたが、素晴らしい女性を描いているのです。深水は女の色気だけを描いているのです。女であることを描いているのです。今の肉体を持っている女ではないのです。
女の肉体を通して、女の霊だけを描いているのです。肉体の女から、女の色気を抜いているのです。これを描いているのです。
奈良大和路の写真集がありますが、そこに大和の風物と、人間の文化とがマッチした光景が撮られているのです。そこには、神の美しさ、命の美しさがそのまま現われているのです。命を拡大するような形で景色が現われているのです。
命というのは、日本語では生になります。命を命として強調すると、艶かすになるのです。これはあることを強調しているのです。女であることを強調するとおめかしになるのです。
神は神自身で、大自然が神であることを命めかしているのです。これが大和路の景色になっているのです。これが艶かしいのです。
奈良の朝ぼらけの霧がたなびいている光景に、神の艶かしさが出ているのです。そこに、塔がたっているのです。人間の文化を塔という形で現わしているのです。これは人間が人間を艶している姿です。
人間のめかしと、神のめかしが共存している光景が大和路に出ているのです。大自然はそういう色っぽいものです。こういう色気が出ているのが本当の女です。
女が持っている色気が女の本体です。肉体が本体ではないのです。肉体的に生きている女の色気が女の本体です。
男は女の何処に惚れるのかと言いますと、色気に魅かれるのです。ところが、色気が知らない間に欲気になってしまうのです。だから、女の肉体を欲望の対象と考えるのです。そうではない、女であることが本当の女です。伊東深水はそれを描いているのです。
肉体の女ではなくて、肉体の女が持っている色気です。これを聖書的に言いますと、女の霊になるのです。色気は霊です。肉ではないのです。女の色気に魅力があるのです。
女であるそのことが、女の魅力です。伊東深水はこれを描いているのです。
上村松園も女の色気を描いているのですが、伊東深水とは取り上げ方が違っているのです。上村松園は女の立場から女を描いていますが、伊東深水は男の立場から女を描いているのです。女の色気を掴まえて、それを引き出しているのです。
男が見ている女の色気が正確です。男が思春期に感じる色気は、欲望的なものではなくて、本質的なものです。女であることに魅かれるのです。これは欲望ではありません。本当の恋愛です。神は男に思春期を必ず経験させるのです。これはどういうことかと言いますと、男に女であることを勉強させたいのです。
肉体を持っているのが人間だという思想を広めたのはユダヤ人です。これはユダヤ思想です。肉体を持っているのが人間ではない。
生きていることが人間です。肉体を持っていても生きていなければ何もならないのです。ただの死骸です。生きていることが人間です。これをリビングソール(living soul)と言います。リビングが人間であって、これがマン(man)になっているのです。
皆様は思春期に欲望の対象ではない女を感じたでしょう。女であることが女の霊です。これに魅かれるのです。
(内容は梶原和義先生の著書からの引用)