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  • emeraldnoniji2016

観自在


 「観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時」と般若心経にありますが、観自在の自在というのは、おのずから在るということと、初めから在るということの二つの意味があるのです。

 初めから在るというのは、皆様がこの世に生まれる前をいうのです。皆様の五官の感覚は、皆様が生まれる前の感覚です。生まれる前の感覚が、肉体を持ってこの世に生まれてきました。これが人間の業(ごう)です。

 生まれる前の感覚が、肉体的な感覚になった、これが生まれたということです。生まれる前の霊魂が、肉体に化けて生まれたのです。ところが、般若心経に五蘊皆空、色即是空とあるのです。

 五蘊皆空というのは人間の思いは皆間違っているというのです。これが般若心経を読んでいる人にさっぱり分からないのです。なぜ分からないのかと言いますと、般若心経を仏教の経典だと思っているからです。仏教の経典だと考えていますと、般若心経が何を言おうと宗教だと思ってしまうのです。

 宗教は日本の憲法が言っていますように、信教の自由ですから、信じても良いし、信じなくても良い。どちらでも良いとなるのです。般若心経に五蘊皆空と書いてあっても、究竟涅槃と書いてあっても、宗教だと考えてしまうのです。その結果、般若心経の言々句々が軽く扱われてしまうのです。

 色即是空、空即是色と言っていても、これは般若心経の文句だから、これを真剣に考える必要はないと考えてしまうのです。これが宗教の悪さです。

 般若心経は宗教の経典ではありません。人間の考えが間違っているというのは、決して宗教ではありません。ところが、般若心経を宗教の経典だと思っているために、般若心経の真実の警告、忠告に耳を傾けようとしないのです。これが宗教の悪さです。文明の悪さです。

 宗教は文明の一翼であって、宗教主義、人権主義、政治経済は現代文明のアイデアです。こういうアイデアが人間の命をめちゃくちゃにしているのです。頭はだんだん良くなるが、心がだんだん腐っていくのです。その結果、生きていながら命が分らない状態になってしまったのです。

 今の日本に宗教ではない命のことをはっきりいう人がいないのです。ことに般若心経と聖書は今までの既成宗教で考えても、これを一つにして勉強することはなかったのです。私は般若心経と聖書を一つにした結果、本当のことが分かったのです。私は当たり前のことを当たり前に言っているだけのことです。

 宗教ではないのなら何をしているのか。真面目な意味での魂のボランティアをしているのです。体の不自由な人には案内をするボランティアがいります。今の日本人は霊魂が盲目になっていますから、こういう人には霊魂の目の開き方、霊魂の悟りの捉え方を教えるボランティアがいるのです。ふつつかな私ですが、その役を買って出ているのです。

 般若心経は色即是空と言っています。色(しき)というのは目に見える形のことでありまして、物として存在するものは皆色(いろ)がありますので、色という言い方で物質のすべてを現わしているのです。

 物質存在というのは本当にあるのかどうかです。現在では中学生でも、物理運動がある、原子の活動があるから物資があるということを勉強しているのです。物質、物体があるのではない。物用運動が物体を形造っているのです。

 形造ることがなぜ必要なのか。形造るということで表現しなければ、物の本質を人間の心にアピールすることができないからです。

 人間は肉体を持って生まれたので、肉体的な意味での五官の感覚に捉われてしまっているのです。肉体の五官という感覚は生活感覚です。

 ところが、生活感覚と生活意識とは違うのです。生活感覚は甘いものを甘いと感じるのです。ところが、お菓子を食べている、果物を食べているとなると意識の問題になるのです。

 感覚と意識とはよく似ているようですが、違うのです。感覚は生まれる前の命の伝承です。大自然にはおのずからの命があるのです。おのずからの命が五官になって感覚が発生するのです。感覚はおのずからの命を正確に認識しています。甘いとか辛いとかいう感覚は百人が百人、万人が万人共、同様の感覚を持っています。

 生まれる前の感覚は万人一様です。全世界の人間は万人一様の感覚を持っているのです。

 この世に生きている人間だけを考えますと万人一様ではありません。百人百様の、気持ちで生きているのです。このように人間の意識は一人ひとり皆違うのです。これが迷いです。

 感覚は人類皆同じです。黒人も白人もアジア人も皆同じです。私はかつて世界一周旅行を二回して、色々な国の人と出会ってきました。色々な国の人と話して五官の感覚は世界中の人が同じだということを、はっきり理解することができたのです。

 甘いものは誰でも甘いと感じますし、辛いものは辛いと感じるのです。ところが、意識は全然違うのです。

 人間の意識が迷いです。本来宇宙は無限無窮の大空間であって、物質があるのかないのか分らない世界です。

 太陽系宇宙以外はほとんどガス体です。太陽自体がガス体ですし、海王星、冥王星は、半分はガス体で半分は液体のようです。従って、時間、空間が厳然として存在しているのは、地球とその近くの惑星だけです。

 本来宇宙全体は無始無終であって、時間空間はありません。ところが、地球にだけは時間、空間が整然として存在しているのです。ここに般若心経が持っている色即是空、空即是色という重大な意味があるのです。

 こういうことは現在の学問では取り上げないのです。ユダヤ人が取り上げないようにしているからです。現在の白人文明がそういう姿勢を造っているからです。

 時間、空間は何であるのか。今の学問では時間があるということを証明できないのです。物理運動はありますが、物質はないというのが、現在の理物理学の考え方です。

 原子爆弾ができたことが、物質が存在していないことを証明しているのです。もし物質が厳然として存在するなら、原子爆弾ができないのです。ですから、色即是空は当たり前のことを言っているのです。物質が空であることは当たり前のことです。

 それではなぜ空であるものが存在するのかと言いますと、人間の業(ごう)に非常に大きい関係があるのです。電子の運動がなかったら物質があるべき道理がないのです。これは皆様がよくご承知のはずです。原子の運動はありますけれど、物質はないのです。これが皆様の生命認識の根底に、重大な関係があるのです。

 物質がないということが皆様にはっきり分かりますと、死なない命が分かるのです。イエスが死を破ったというのは歴史的事実です。日曜日はイエスが死を破った復活記念日です。

 日曜日の本義が今の日本人に全然分かっていないのです。アメリカ人にも分かっていません。アメリカ人は宗教行事として日曜日が分かっていますけれど、日曜日の本質についてはほとんど無関心です。

 宇宙は本来物がない世界です。時間、空間がなく、無始無終の世界です。無限無窮です。これが大学宙の本質です。ところが、地球だけに森羅万象が存在している。

 地球は宇宙の特殊現象です。このような特殊現象が太陽系宇宙にどうして存在しているのか。このことを知るためには、どうしてもキリスト教ではない聖書を勉強しなければならないのです。今の学問ではだめです。時間空間の本質が説明できないからです。

 皆様は死にたくないに決まっていますけれど、他方死ななければならないと思っているでしょう。これは命に関する意識が束縛されていることを示しているのです。

 死にたくないという方向で自分の命を見ればいいのです。観自在菩薩というのは、そのやり方の一つの方法です。死にたくないと思われるなら、はっきり死にたくないと考えてください。自分の口で言ってください。

 自分の本心に向かって死にたくないと言ってください。この気持ちを貫き通すような勇気があれば、死なない命を見つけることができるのです。

 死を破った男がいるのです。死を破った人間がいる以上、皆様も死なない命を見つけることができるに決まっているのです。私はそれが分かっているからこうしてお話ししているのです。

 ただ考え方を変えたらいいのです。これは観念論ではありません。意識を転換したらいいのです。死ななければならないという生命意識を変えてしまうのです。本来の生活感覚と同じような意識を持ったらいいのです。

 皆様が甘いと思うことは誰でも甘いと感じるのです。これは本来の感覚です。仏典はこれを自性と言っているのです。

 本来の人間の命の本質は死なない命のあり方を直感的に知っているのです。これが甘いと感じることです。甘いと感じるのは、肉体ではなくて魂で感じているのです。これが分かりますと、般若心経の究竟涅槃がよく分かるのです。

 これが分かりますと、皆様は死なねばならないという意識から解放されて、死なない命をはっきり掴まえることができるのです。

 般若心経に涅槃という言葉があります。涅槃というのはサンスクリットのニルバーナーという言葉からきていまして、冷えて消えてなくなることをいうのです。

 人間で言えば死んでしまうことです。これを涅槃と言っているのです。例えば、蝋燭の火が一陣の風によって、ふっと消えてしまうことを涅槃というのです。

 皆様の生活意識は蝋燭の火のようなものです。皆様は今、自分が生きていると考えています。自分が生きているというのは、現世における概念であって、常識です。これは必ず消えてしまうに決まっています。

 消えてしまうまでに、つまり目が黒いうちに、消えない火を見つけることが絶対必要です。

 ボランティアの目的は何かと言いますと、魂の火をともすことです。魂の火をともすということは、皆様が現在生きているうちに、消えない火をともすという意味です。死なない命を見つけることです。

 今までの世界観ではない新しい世界観を持って頂くことです。世界観というと難しく聞こえますが、物の見方ということです。

 皆様は現象世界があると考えて生きています。だから死んでしまうのです。ただ今の人間の生活意識によれば現象世界は厳存しています。

 人間の生活意識は変化するのです。固定したものではありません。目に見えるとおりのものがあるというのは、考え方でありまして、見えてはいるけれども実は存在していないというのが、釈尊の考え方です。

 現在の学校教育が、皆様に目に見えているとおりのものがあるという意識を植え付けてしまったのです。昔の日本人はそう考えなかったのです。千利休は一期一会をお茶の原理にしているのです。これは見ているとおりのものがあるという考え方とは違います。

 今生きているこの瞬間しかないということをはっきり認識する時に、本当のお茶を飲む喜びが湧いてくるのです。これは五十歳の方が五十年生きてきたという考え方とは違うのです。人間は瞬間、瞬間生きているのです。こういう真面目な生き方をする人が、かつての日本にはいたのです。

 徳川家康は戦国時代の武将でしたが、「厭離穢土欣求浄土」という軍旗を立てて戦争をしていたのです。厭離穢土はこの世は汚れているから私は嫌いだ。だから、浄土を求めると言っていたのです。

 武将でありながら、「厭離穢土欣求浄土」という馬印を立てて闘っていたのは、日本人だけです。これが日本民族が持つ特性です。

 徳川幕府三百年の間に、日本人の世界観ががらっと塗り替えられてしまったのです。

 ユダヤ人が人類の世界観を塗り替えたように、家康と十五代の将軍が、日本人の世界観を変えたのです。人間を士農工商の四つに分けて、封建制度を徹底させたために、日本人の常識のあり方が根本から変わってしまったのです。

 家康は武将でありながら、「厭離穢土欣求浄土」という旅を立てていたのですが、こういう感覚が今の日本に見られなくなったのです。

 日本では明治の文明開化以降、ユダヤ主義が氾濫しているのです。文明開化という思想は、はっきりユダヤ主義です。この感覚が日本に氾濫したために、日本が文明的に塗り替えられたのです。本当の人間のあり方が消えてしまって、文明思想が真正面に立ったのです。

 歴史が隠されてしまって、文明が浮かび上がったのです。文明という言葉と歴史とは全く別のものです。今の学者は文明と歴史とがどのような係わりを持つのかということが分からないのです。

 今の学者は皆ノーベル賞を欲しがっているのです。ノーベル賞をもらえば世界的な学者になるからです。ノーベルはダイナマイトを発明したユダヤ人です。ユダヤ人に褒めてもらわなければならないというのが、現在の学者の根性です。

 文明がこのようになっているのです。アメリカも文明の悪さによって塗り替えられたのです。アメリカには本当のキリストはありません。本当の聖書もありません。アメリカにあるのはキリスト教の聖書であって、キリスト教の信心はあります。これは全部西洋の宗教です。

 聖書はキリスト教の教典ではありません。キリスト教が説いているキリストは、宗教のキリストです。これを日本人に押しつけているのです。

 聖書は宗教ではありません。神の言葉です。キリスト教の人々には神の言葉という意味が分らないのです。キリスト教の人々も聖書は神の言葉だと言いますけれど、神の言葉と宗教がどう違うのかという説明ができないのです。

 聖書はキリストを信じるためにあるのですが、キリストという言葉の使い方が間違っているのです。キリストというのは、神が地球を造って人間を完成するための計画です。

 地球と人間を完成するための地球計画が、キリストです。今の地球は未完成です。今の人間も未完成です。まだ一人前の人間ではないのです。だから、命が分らないのです。見ているということがどういうことなのか。その説明ができないのです。

 神とは何かということを簡単明瞭に申しますと、心臓が動いていることです。これが生ける神です。リビングゴッド(living God)です。リビング(living)という事実が神です。

 目が見えるということがリビングという事実です。耳が聞こえること、五官の働きは、命のあり方を正確に表現しているのです。皆様は五官によって命を経験しているのです。

 五官によって命を経験していながら、生活の意識が間違っているのです。生活意識が間違っているために、命が分からないのです

 現在の皆様の考えのままでは、聖書をいくら読んでも分かりません。「心が貧しい人たちは、さいわいである」とイエスは言っていますが(マタイによる福音書5・3)、何のことか分からないのです。神の御霊(みたま)によって教えられないと分からないのです。

 聖書は神の言葉ですから、神に教えてもらわないと分からないのです。人に教えてもらっても分からないのです。

 キリスト教の牧師さん、神父さんは人間です。だから、キリスト教は商売になっているのです。キリスト教は宗教を教えていますが、聖書を教えていないのです。

 聖書は命の言葉そのものです。般若心経が悟りそのものであるように、聖書は命そのものです。聖書を信じるということは、人間の常識を持ったままではできないのです。信じているつもりでも皆間違っているのです。

 パウロはこのことを、「心を更えて新にせよ」と言っているのです(ローマ人への手紙12・2)。「心の深みまで新にされる」と言っているのです(エペソ人への手紙4・24)。

 イエスは、「悔い改めて福音を信ぜよ」と言っているのです(マルコによる福音書1・15)。

 悔い改めるとはどういうことかが、キリスト教では全然分かっていないのです。

 人間の意識構造を全く変えてしまうことです。マインドを全くやり変えてしまうことです。

 「心を新にすることによって、造り変えられる」とパウロが言っていますが(ローマ人への手紙12・2)、この箇所を英沢では、but be ye transformed by the renewing of your mindとなっています。

 マインドのあり方を新しくして、もう一回出直せと言っているのです。マインドの働きを出直してやり直すということは、究竟涅槃しかないのです。

 イエスをまともに信じるためには、涅槃をまず実行しなければだめです。命が自分のものだと考えている状態のままで、いくら聖書を信じてもだめです。

 命は皆様のものではないのです。天から預けられたものです。皆様は自分で生まれたいと思って生まれたのではありません。従って、皆様の命は皆様自身のものではありません。これが分からないとキリストが信じられないのです。

 信じたつもりでいても、それはキリスト教の教義、概念を信じているのであって、キリストを信じたことにはならないのです。

 水と霊とによって新に生まれるとはどういうことか。霊から生まれるとはどういうことか。神の国に入るとはどういうことか。これが分かっていないのです。

 従って、本当に五蘊皆空、色即是空、空即是色、究竟涅槃という般若心経の精神が実行されないのでしたら、聖書はとても信じられません。信じた格好をしても本当の信仰にはなっていないのです。

 般若心経には悟りがあります。悟りとは自分自身が消えてしまうことです。これが般若心経の命題です。般若心経を踏み台にして聖書を見なければ、本当の聖書は分からないのです。

 普通の人間が聖書を信じることは、絶対できません。しているつもりでもそれは無効です。神の前には、キリスト教の宗教観念は一切通用しません。

 お寺の信心とかキリスト教の信仰はこの世のことです。皆様がこの世を去ってしまいますと、お寺も教会もない所へ行くのです。教会がある所では教会の信仰は役に立つかもしれません。お寺のある所ではお寺の信心は役に立つでしょう。

 しかし、死んでから寺や教会が言うことが役に立つのでしょうか。宗教をいくら信じても、死んだ後には神の前に行くのですから、役に立たないのです。神の前に通用することを考えますと、皆様の本当の霊魂の状感を、掴まえていなければいけないのです。そうしなければ、神の前に立つことができないのです。

 神の前は厳粛な事実です。厳然たる事実です。神の前に立つためにはどうするのか。何をどうしたらよいかを聖書に基づいてお話ししているのです。これが魂のボランティアです。

 日本にはこういう役割をする人がどうしても必要です。日本人は神の聖書を知らないのですから、これを教える人がいるのです。キリスト教の聖書は知っていますが、神から直接教えられた聖書は知らないのです。

 だから、天皇制の意味が分からないのです。これがさっぱり分からないのです。天皇陸下ご自身がご存知ないのです。

 日本人が持っている常識はあやふやなものばかりです。人間とは何であるかを知らないのです。皆様は五十年、六十年の生活を送ってきました。数十年間の間、家庭生活を送ってきました。それで家庭が分かったのでしょうか。家庭とは何かが分かったのでしょうか。

 性とは何かが分かったのでしょうか。この世の常識を掴まえたままで、人間の性の根本は絶対に分かりません。

 神の聖書を見たらすぐに分かるのです。本当の命、死なない命はあるのです。本当の性はあるのですが、それが分かっていないのです。

 祈りというのは神と人との対話、コミュニケーションです。神の心境が分からなければ、神と対話できないのです。釈尊の本当の空を悟った後に、神と対話することができるのです。

 心臓が動いていることが神ですから、これを掴まえて頂きたいのです。

 イエスが、「水からと霊とから新に生まれて神の国に入れ」と言っています(ヨハネによる福音書3・5)。水から生まれること、霊から生まれることです。そして、神の国に入るのです。これをイエスが命令しているのです。

 般若心経は空じることを目的にしています。日本の仏教は空じるのではなくて、自分が救われること、自分が幸せになること、死後が安楽になることを考えているのです。

 いわゆる後生安楽という思想が空です。これは五蘊の中に入るのです。人間が常識によって考えている仏国浄土とか、天国というものは全部間違いです。

 イエスは死んでから天国へ入るということを一切言っていません。現世に生きているままの状態で、天にいます父の御心を行う者だけが、天国へ入ると言っているのです。現在生きている状態のままで、天の父の御心を行う者だけが、天国へ入ると言っているのです。死んでから入るとは言っていないのです。

 天国へ入るのは皆様が目の黒いうちに入るのです。イエスが言った天国の他に、永遠の命はどこにもないのです。

 仏典には永遠の命のことが書いていません。大乗仏典の一万七千六百巻の経文の中に、魂という文字がないのです。仏国浄土という思想はあります。阿弥陀如来のいわれを心得て、念仏申すならと言っているのです。

 ところが、阿弥陀如来の名号を心得て念仏申すということが、今の他力本願にはありません。そういうことを教えていないのです。従って、宗教はだめだと言わざるを得ないのです。

 経典に書いてあること、聖書に書いてあることを、寺も教会も実行していないのです。現代文明によって人間の心が腐っていると言いましたが、文明によって人間が洗脳されてしまったのです。ユダヤ人問題を勉強している人がめったにいないのです。ユダヤ人が何をしているのか分からないのです。だから人類全体が絶対に死んでいく命を、堅く固く、硬く、本当の命だと思い込まされているのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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