top of page
検索
  • emeraldnoniji2016

彼岸


 般若心経は、彼岸へ渡ると言っているのですが、彼岸へ渡るというのは、こちら岸ではない向こう岸へ渡ることを言っているのです。般若波羅蜜多というのは、向こう岸へ渡る知恵のことを言っているのです。

 ところが、般若心経を読んでいながら、向こう岸へ渡っている人は、一人もいないのです。

 こういうことが、なぜ起きるのでしょうか。向こう岸へ渡るというのは、死なない命を見つけて入ることです。死なない命があることを、はっきり言明している人は、今の日本には、一人もいないのです。

 命の本質が、全然分かっていないのです。分かろうとしないから、分からないのです。分かろうとすれば、命の本質ぐらいのことは、誰でもすぐに分かるのです。生きている状態を見れば、分かるのです。

 目がどのように働いているのか。目は空(くう)を見ているのです。形がないものを見ているのです。例えば、ごちそうを見ると、うまそうだと思えるのです。電気ストーブを見ると、あたたかそうだと思う。

 おいしそうだ、あたたかそうだというのは、空です。目に見えないもので、空です。それを目は見ているのです。霊魂は、そういう微妙な働きをしているのです。

 魂を少し落ちついて考えてみれば、死なない命を見つけ出すことぐらいのことは、何でもないのです。現に、五官は、命の本質を見きわめるだけの能力を、十分に持っているのです。

 現在生きている人は、この世に生まれてきた後の人ですが、この世に生きてきたということは、生まれる前の命の種があったから、生まれてきたのです。生まれる前の命の種とは、生まれるべき原因です。この原因がなかったら、生まれてきたという結果は、発生しないのです。

 その原因は何であったのか。人間がこの世へ生まれてくるべき原因が何であったのか。この世に生まれてくる前の命の本質が、五官の本体です。目の働き、舌の働きが、人の魂の中心になっているのです。だから、それを見れば、生まれる前の命、死なない命が、分かるに決まっているのです。

 そのためには、現在生きている人間の考え違いを、根本的に修正する必要があるのです。これが、般若波羅蜜多です。この世に生まれてから後の考えを、根本から捨ててしまうことです。五蘊皆空とは、それを言っているのです。

 自分の命を捨てるのではありません。自分の考えを捨てるのです。つまり、死ぬべき命を自分のものだと考えているから、死ぬのです。

 この考え方を捨ててしまえば、死なない命が分かるに決まっているのです。それが五蘊皆空の原理です。般若波羅蜜多とは、そのことです。

 人がこの世に生まれてきた時の命は、死なない命でした。ところが、この世でだんだん大きくなって、大人になった結果、だめになったのです。

 大人の知恵というのは、曲がりくねっているのです。常識、知識で、人の頭は固まってしまっているのです。それが迷いの根本です。

 命が分かっていないのです。仕事のこと、家族のこと、自分の生活のことで、頭が一杯です。そういう状態では、命の本質は、全然分かりません。

 自分が生きていると考えている。これが、根本から間違っているのです。命は人のものではないのです。天のものです。この世に生まれてきたのは、業(ごう)を背負いこんだことです。

 生まれてきた、生きているということは、人間の業です。それを果たしてしまわなければ、本当の命は分かりません。果たすというと大げさに聞こえますけれど、業というのは、考え違いのことです。

 自分が生きていると考えていることが、人間の業です。自分が幸せになりたいと考えている。それを捨ててしまうのです。捨ててしまえば、色即是空が本当に分かります。色即是空ということが本当に分かれば、業はさらっと消えてしまうのです。

 そうすると、初めて、迷いでない、本当の命が見えてくるのです。命を捨てるのではないのです。自分の考え違いを捨てるのですから、あたりまえのことです。

 ところが、これができないのです。だから、みすみす死ななくてもいいものを、死んでしまわなければならないことになるのです。

 死んだ後に、霊魂の裁きがあるから、困るのです。死んでしまうだけなら何でもないのですが、現世に命を持ってきたものが、その命を正しく生きていないということは、命を冒涜していることになるのです。命を冒涜しているものは、それに対する重大な責任を追及されることになるのです。これが困るのです。

 人間は、生きているつもりで、実は死の方向に近づいているのです。自然現象として、死んでいくのは、あたりまえです。

 ところが、現代文明は、肉体が死んでいく方向に向っているのではなくて、霊魂が滅亡する方向に向かっているのです。

 文明は実にばかなことをしているのであって、六千年の間、人間は文明社会を造ってきたのですが、何をしてきたのかを端的に言いますと、死ぬことばかりに熱心であったということになってしまうのです。これは皮肉ではないのです。

 人間は、生活するために、一所懸命になってきました。特に日本人は、その傾向が強いのです。それから、知性を発するために、一所懸命に考えてきました。この二つの方向が、両方共、間違っていたのです。この二つが、必然的に人間の霊魂を殺してしまうのです。

 釈尊は、仏を説いたのです。

 仏とは何かと言いますと、悟ることです。「仏とは たが言いにけん白玉の 糸のもつれをほとくなりけり」という道歌があります。糸のもつれのほとけなりけりという言い方もあります。

 白玉の糸のもつれというのは、人間の命に関する考え方が、錯綜している状態、こんがらがっている状態をいうのです。人間の生命、生きている意識がこんがらがっているので、何のために生きているのか、何をすればいいのか、さっぱり分からなくなってしまっている。

 そのために、糸のもつれをほとくことが、仏でありまして、サンスクリットで、ブッダと言っています。これは正覚すること、正覚した者をさすのです。

 これは、解脱という事になります。何を解脱するのかと言いますと、人間が生まれてから、今日まで経験してきた人生を、解脱するのです。

 四十年、五十年と、一所懸命に人生を経験してきました。これを、もう一度、解脱しなければならない。へたな経験をするくらいなら、初めからそういう人生経験をしなかった方がいいのです。

 なぜそんなことになるかと言いますと、人は現在、生きています。これは、命を経験していることです。ところが、命とはどういうものかということになりますと、さっぱり分からない。命を経験するために生きていながら、命がさっぱり分からない。経験の仕方が、間違っているからです。これを解脱するのです。

 人間がこの世に生まれてきたのは、試行錯誤のためです。試行錯誤とは、ああでもない、こうでもないと、何回でもやり直してみる事です。人生は、やりそこないを修正するために、生きているのだと言ってもいいのです。

 ところが、自分が経験してきた人生を、解脱することがなかなかできない。

 解脱しなければ本物にならないのに、解脱することを嫌がっているために、みすみす、魂は、地獄の責め苦を受けなければならないことになるのです。

 地獄の責め苦という言い方は、非常に古風ですが、正確です。命を経験していながら、命が分からない人は、地獄の責め苦に十分に価するのです。命が分からないのは、生き方が間違っているからです。

 人間は、自分の命があると考えている。そんなものは、絶対にないのです。命は人間が造るものではない。個人の命があるのではない。命は地球に、一つあるだけです。宇宙に一つあるだけと言った方がよいかもしれませんが、とにかく、命は一つしかないのです。それを、自分の命があると考えている。

 つまり、命に対する根本的な考え違いが、人間の常識の土台に渦巻いている。わだかまっているのです。

 そのような考え違いを土台にして、考えていますから、人間が学問をすればするほど、だんだんばかになるのです。これはおかしなことです。人間が、社会的に利口になればなるほど、霊的に愚かになるのです。そうして、せっかく与えられた命を、失ってしまうのです。

 釈尊は、仏を説いたのです。仏とは、ほとけることです。こんがらがった人間の考えを、ほどいてしまうことです。

 仏という言葉の基本的な原理を、簡単明瞭に言いますと、空(くう)という字になるのです。色即是空の空です。五蘊皆空の空です。般若心経は、この空という字と、無という字とで、成立しているのです。これが、実は、釈尊の本来の面目です。

 釈尊は、今生きている人間の在り方は、空であると言っている。なぜそう言ったのかと言いますと、明けの明星を見たからです。言い伝えられた所によりますと、彼は、明けの明星を見て、悠然と大悟したことになっているのです。

 明けの明星は、太陽が出る前に、暁の闇を破ってきらめき出す、いわゆる明星ですが、太陽が出る前の星のことです。明けの明星が出れば、まもなく、太陽が出るに決まっているのです。

 明けの明星を見た時、釈尊は、どのように感じたのか。恐らく彼は、明星は太陽の前に出るものですから、彼が悟ったことは、やがて、太陽が出るだろうということを感じたのです。太陽が出るということは、明々白々な真実の世界が現われるということです。

 現在、人間が生きている世界は、闇の世界である。仮の世界である。本当の世界ではない。地球も、人間も、仮の存在でしかない。

 釈尊は、やがて現わるべき本当の世界から見れば、今、人間が生きているあり方は、根本から空であることを、非常に強く直感したのです。

 彼は、本当の実を悟ったので、反面的な意味で、人間が現象的に生きていることは、空であると言わざるを得なかったのです。明星によって、彼は実を見た。そこで、現在生きている人間の状態が空であると言ったのは、当然です。

 釈尊が、人間が空であると言ったのは、言っただけの明確な信念があったに決まっているのです。それは、イエスが現われる、約五百年前の話です。

 釈尊が見た明けの明星は、非常に大きい宇宙的な意味があるようで、これが、現在の宗教界では、全然分かっていないのです。

 新約聖書マタイによる福音書二章で、東方の学者が明星を見て、イエスの誕生を拝みにきたという記事があります。これと、釈尊が見た明星とは、何かの形で、十分につながらなければならない理由が存在するように思われるのです。人の魂に、明星が出る時に、命の本当の姿が分かるのです。

 現在の人間は、現世が本物だと思い込んでいるのです。ところが、現在生きている人間は、必ず死ぬに決まっているのです。

 命には、根本的に相反する二つのものがあります。絶対に死ぬに決まっている命と、絶対に死なない命です。

 人間が、常識的に経験している命は、絶対に死ぬに決まっている命です。常識的に生きている人は、必ず死にます。これは、空なる命です。

 ところが、直観的に、潜在意識に感じている命は、死なない命です。これが分からないのです。直観的に、潜在的に感じている命は、死ぬべきはずがないという心が、はっきりとあるのです。

 宗教ができたのは、実は、死なない命があることを、人間の霊魂が潜在的に知っているからです。そこで、宗教ができるのです。

 ところが、できた宗教が間違っているのです。なぜ間違っているのかと言いますと、理屈をごちゃごちゃつけるからです。理屈をつけて、せっかくの釈尊の悟りを、全部無意味にしているのです。

 釈尊は、人間が空であると言ったのです。一切空、五蘊皆空、般若波羅蜜多が、釈尊の悟りの実体です。人間は色々な思いでこんがらがっているのです。これが、全部ほとけることです。人間の経験がほとけることです。とけて、流れてしまう。そうして、あとに残ったのは、本当の命だけです。これが解脱です。

 釈尊は、やがて現わるべき太陽を言いたかった、説きたかったが、その太陽がどういうものか、言えなかったのです。

 太陽以前の、明けの明星しか見ていないのですから、太陽がどんな状態で現われるのか、説明ができなかったのです。とにかく、今生きている人間が間違っていることが、分かったのです。

 そこで、五蘊皆空、色即是空という言い方になったのです。不生不滅、不増不減、不垢不浄と言っているのです。それが、般若心経の精神です。

 ところが、あとから、弟子たちが、色々と理屈をつけたのです。如是我聞と言って、たくさんの経典を書いて、分からなくなってしまったのです。空と無が消えて、十二因縁、四諦八正道という、唯識論の理屈が並べられてしまったのです。

 般若心経は、十二因縁、四諦八正道を、否定しているのです。無無明亦無無明尽、及至無老死亦無老死尽と言っています。十二因縁をはっきり捨てているのです。無苦集滅道と、四諦を切り捨てているのです。

 大乗仏教の、空や無を説いただけでは商売になりにくいので、四諦八正道という、もっともらしい理屈を造ったのですけれど、解脱するのが難しい。どうしたら解脱できるかを、皆が聞くものだから、しょうがないから、四諦八正道という理屈を造ったのです。

 釈尊は、そんなことを言わなかったのです。釈尊が言いたかったのは、五蘊皆空です。色即是空です。ところが、人間の常識を基礎にして勉強すればするほど、だんだん間違ってくるのです。この世に生まれてきた命が、本物だと思っているからです。何十年か生活してきた命が、本物だと思っているのです。だから、余計な教学を造るのです。従って、釈尊本来の空、無が浮いてしまって、全然分からなくなってしまっているのです。

 人間が生きているのは何のためかと言いますと、現在生きている命が、仮の命であることを知るためです。ところが、人間は、死ぬに決まっている命を、本当の命だと思い込んでいる。特に、近世文明は、それが強いのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

閲覧数:2回0件のコメント

最新記事

すべて表示

はじめに

般若心経は日本人に大変愛されていますが、本当の意味が全く理解されていないのです。 日本人は生活については非常に熱心ですけれど、命についてはほとんど考えようとしない悪い習慣があるのです。これは日本人だけでなく、現代人全体に言えることです。 全世界の人間は生活のことは考えています。政治経済のことは熱心にに考えますが、命のことは真面目に考えようとしていません。これが文明の根本的な間違いですが、それがその

般若心経は宗教書ではない

般若心経は一般の人々には仏教の経典であると思われていますが、実は宗教書ではありません。人間が現世に生きていることの見方、人間の正当な認識のしかた、悟りのしかたを述べているのです。 現世に生きている人間を正しく見ていきますと、一切空になるのです。肉体的に生きているということは、生きていると思っているだけです。目で見ているものがあると思っている。自分の思いがそのまま皆様の命になっているのです。これは生

般若心経は人間を叱っている

般若心経をご覧ください。般若心経の文句を読んでみますと、人間が生きている状態を真っ向から叱っていることが分かるのです。落ち着いて般若心経をお読みになれば、皆様ご自身がこっぴどく叱りつけられていることを感じるはずです。 五蘊皆空、色即是空、空即是色、究竟涅槃という言葉は、現在人間が生きている状態を、痛烈に叱りつけているのです。 ところが、般若心経を仏教の経典だと考えているために、いくら叱られてもさっ

bottom of page